おだやか人生改革瞑想

【誰も語らないこと】それでも、私は言います!!

2022年12月31日

 

今までの記事の中で、

『人は、すべて死ぬ』

ということについて、

どのように受け取っていく
べきかについて触れてきました。

 

私を含めて、
大半の人が他人事に考えています。

 

どの程度、
他人事に考えていたのかは、

自分自身がその時を
迎えた時にハッキリと
自覚することになります・・・

 

エラそうに言っているけれども、
お前はどの程度できているのだ!

 

そのようにおっしゃる方も
いらっしゃるかと思います。

 

これまでにも何度か
生死の問題を扱った
記事を書いてきましたが、

私がそうした記事を
読んだとするならば、

間違いなくそのように
思うかと思います。

 

私だって、
全くできていません。

 

明日死ぬとなれば、
おそらく冷静さを保つ
ことなどできないでしょう。

 

怖いです、嫌です。

 

私も死にたくありません。

 

きっと、慌てふためいて、
恐れおののいているに
違いありません。

 

しかし、だからと言って、
目を固く閉じて、

見て見ない“フリ”をしても
良い問題ではないのです。

 

 

だから、私は、
言っていきます。

 

 

なぜなら、たとえ、
字面のうえだけであっても、
知るのと知らないのとでは
大きく違いがあります。

 

知っておくべき価値がある
とても大切な問題だからです。

 

 

◆どこまでも

 他人事にしか思えない私◆

 

 

そうなのです。

 

言うほど簡単には
腑に落とせないお話なのです。

 

だからこそ、日々、
何度も何度も繰り返し繰り返し、

自分自身へと言い聞かせて
いかなければならないのです。

 

タイで仏道修行として行う
『瞑想』実践のなかでは、

ひたすら死体を見つめて、
『死』というものを観察したり、

自分事ととしてとらえていく
という修行方法があります。

 

ところが、
私の力不足だったのでしょう。

 

あるいは、
私の修行が徹底されて
いなかったからなのでしょう。

 

そのような修行を実践しても、
どこまで行っても他人事にしか
考えられない私がいたのです。

 

自分だけは、決して、
そのようなことはないのだと
心のどこかで思っている
自分の姿があったのでした。

 

もしも、本当に自分事として
とらえることができたのならば、
心は静寂になっていきます。

 

なぜならば、それは、
ごくごく当たり前の
自然な現象だからです。

 

あるいは、
本当に自分自身に
降りかかることとして
受け止めることができたならば、

 

今このようにして
のうのうと時間を過ごすことなど
できなくなるはずなのです。

 

何を放っておいてでも
今すぐにやるべきことが
たくさんあるだからです。

 

◆私の『瞑想』仲間の姿◆

 

私の『瞑想』仲間で
旅立って行った仲間がいます。

 

私よりも
ずっとお若い方です。

 

彼は、非常に熱心に
『瞑想』に励んでいました。

 

私など全く
比べ物にならないほど
真摯に『瞑想』に
取り組んでいました。

 

そんな彼は、
おそらく自身のこの先を
聞かされていたのでしょう。

 

私に対して、

『最高の瞑想修行の
シチュエーションでしょう?』

こう語ってくれました。

 

どのように目の前に迫った
自分の『死』と向き合って、
どのような思いで残された
日々を過ごしたのでしょうか。

 

きっと、
人並み以上の
精神力を必要とした
のではないでしょうか。

 

 

私は、『瞑想』とは、
危機を“回避する”のではなくて、

危機を“超えていく”
ものだと言いました。

 

つまり、
一時的に出会った危機を
避けていくというものではなく、

危機を危機では無くしていく
捉え方を身につけていく
ものであるということです。

 

 

すなわち、
『瞑想』というものは、

“まやかし”

のものでも、

“現実逃避”

“誤魔化し”

“逃げ”

などでは決してない、

現実というものに
真正面から向き合っていく
ものであるということです。

 

 

ですから、私は、
彼が生死の問題を力強く
超えていったのだと信じています。

 

彼ですもの、きっと、
そうに違いありません。

 

もちろん、私は、
彼ではないので、

実際には、
どうなのかはわかりません。

 

しかし、私は、
そのように信じています。

 

 

このような状況の中で
『瞑想』実践に励んで、
力強く生き抜いた彼には
脱帽するしかないのです。

 

私は、ただただ彼に敬意を
示すことしかできないのです。

 

このお話は以前にも
別のかたちで紹介しています。

 

 

◆実利追求の

 『瞑想』では“できない”◆

 

ここで彼を紹介し
讃えることこそが

彼を追悼し敬意を示すことに
なると思いましたので、

敢えて彼の話題を
出させていただきました。

 

さて、私たちは、
彼の背中からどのようなことを

学んでいかないと
いけないのでしょうか?

 

それは、私から答えを
示すものではありませんし、

示せるものでもありませんので、
ぜひ、吟味して考えてみてください。

 

私の考えを示してしまうと
先入観を入れてしまう
ことにもなりかねません。

 

個人によって
響く箇所も違うことでしょう。

 

おひとりおひとり、
深くご自身の内面へと
問いかけてみてください。

 

生きるとは何かを
問いかけながら、
自分の姿を照らし出し
続けてください。

 

そのような姿勢で
臨むのが『瞑想』ですし、

また、自然にそうした姿勢と
なってくるのが『瞑想』です。

 

実利追求の『マインドフルネス』や
パフォーマンスアップのみを謳っている
『瞑想』にはない姿勢です。

 

『瞑想』とは、
人生の学びであると
いつも言っているのは、

生き方を問うていく
私自身の学びであり、
人間の学びだからです。

 

 

最後までお読みくださいまして、
ありがとうございます。

 

このご縁に
感謝しています。

 

 

毎日が

明るくておだやかなものと

なりますように。

 

 

 

《私のヴィジョン&ミッション》

 

タイで学んだ仏教の瞑想をベースとして、

私たちがより安らかでよりおだやかに

生きるための確かな道を伝えていくこと。

 

『身体』『心』

『人間関係』『日常生活』

 

誰もが心地よい生き方を選択し、

明るいおだやか人生にシフトする

 

 

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