新・タイ佛教修学記

森の修行寺での生活

2020年3月12日

 

細かなところはお寺によっても異なりますが、ある森の修行寺での生活を紹介します。

 

 

森の修行寺の朝は早い。

 

午前3時30分に起床。

 

4時に朝の勤行と瞑想。

 

 

その後、日の出と同時の5時半から托鉢に出かけます。

 

托鉢のコースはいくつかあって、それぞれのコースで数名ずつのグループにわかれて、麓の村まで約30分程かけて歩いて托鉢に向かいます。

 

托鉢を終えて、お寺に帰って来るのは、だいたい7時半頃。

 

 

8時から朝食。

 

 

町や村のお寺では、各自が朝の托鉢で得た食物は一旦集められて、再び分けて、朝食とします。

 

そして、その余ったぶんを昼食とするのが一般的です。

 

 

タイの仏教では、戒律で午前中の食事だけが認められていて、午後に食事を摂ることは禁じられています。

 

そのため、一日の食事は、朝食と昼食の2食です。

 

しかし、森の修行寺では、朝食のみの一日一食というのが基本スタイル。

 

また、町や村のお寺では、お皿を使いますが、各自の『鉢』の中へ自分に適した量の食べ物を取り分けて、それを食するのが森の修行寺の基本スタイルです。

 

わかりやすく言えば、バイキングのよう形式が近いかと思います。

 

 

余談ですが、タイの『鉢』は、日本の禅宗の『鉢』と比較するとかなり大きいです。

 

台所にある「ボール」ような形をしています。

 

ですから、タイの『鉢』は、禅宗を知る人にとっては、著しく違和感を感じそうです。

 

 

森の修行寺では、食事のマナーに反する行為も厳しく指導されます。

 

ですから、食べる時も常に気を配っていないといけません。

 

常に「瞑想」です。

 

 

 

 

朝食が終わると、しばらく自由時間となります。

 

森の修行寺では、一人に一室、人が一人やっと住める程度の小さな小屋が与えられます。

 

広い境内の森の中には、このような小さな小屋がいくつも点在していて、朝食が終わるとそれぞれの小屋へと戻ります。

 

夕方の勤行の時間までお互いに顔を合わせることはありません。

 

 

それぞれの時間を過ごすわけですが、戒律違反をしていないことと、集団生活を乱さなければ、基本的には何をしていても構いません。

 

自分の衣の洗濯をしたり、勉強をしたり、瞑想に励んだりと、いたって自由です。

 

 

森の修行寺では、午後におやつというか、ちょっとしたお茶の時間が設けられているのが一般的です。

 

しかし、おやつといっても、午後の食事は禁じられているので、戒律の上で許された飲み物と食べ物が出されます。

 

戒律で午後も食べることが許されているものは、牛乳、牛乳を含んだ飲み物、固形物が入っている飲み物“以外”の飲み物と薬です。

 

これには、いくつか例外があって、蜂蜜、生姜、牛乳(ミルク)が入っていないココア、牛乳(ミルク)が入っていないチョコレートは、戒律上「薬」として扱われているので、午後であっても食べることがきます。

 

「ココア」と「チョコレート」が「薬」として扱われているのはとても興味深いです。

 

 

束の間の休憩時間が終わると、午後6時から夕の勤行があり、一日が終わります。

 

その後は、また各自で瞑想に打ち込むなど、それぞれの時間を過ごします。

 

 

私がお世話になった森の修行寺では、修行のために、あえて電気を引いていませんでした。

 

夜はもちろん真っ暗。

 

街頭などはありません。

 

懐中電灯、もしくは蝋燭やカンテラは必需品でした。

 

 

麓の村から少なくとも数キロは離れていますし、しかも、幹線道路からもかなり離れているということもあって、車の音などの騒音が全く聞こえてきません。

 

聞こえるのは、自然の音のみ。

 

鳥、虫、蛙・・・

 

夜には、トゥッケーという大きなトカゲの鳴き声。

 

そして、風の音・・・

 

木の葉と木の葉が当たって発する音は、まさに風が走り去っていくかのように聞こえました。

 

こんなに自然の音だけに囲まれた生活を送ったことはあったでしょうか。

 

いくつかの森の修行寺で修行をさせていただく機会に恵まれましたが、これほどまでに静かなお寺も初めてでした。

 

このような環境は、比較的田舎に生まれ育った私でも驚きの体験でした。

 

もしかすると、日本ではかなりの人里離れた場所にでも行かない限り、なかなか体験することが難しい環境なのかもしれません。

 

しかし、タイには、このような環境の森の修行寺がいくつもあります。

 

出家とか、瞑想修行が目的ではなくても、私はこのような環境のなかで一時期を過ごすのもいいのではないかと思います。

 

 

タイの人たちは、バンコクから何時間もかけてこうしたお寺を訪ねて、お布施をして、瞑想をして、思い思いの時間を過ごして、それぞれがそれぞれの『徳』を積んで、とてもすがすがしい気持ちになって帰っていきます。

 

日帰りの人もいれば、数日間滞在する人もいます。

 

自由に来て、自由に過ごすことができるというところがタイのお寺のいいところです。

 

このように毎日、比丘は比丘の、在家者は在家者のゆっくりとした時間が流れているのが森のお寺です。

 

 

(フォレスト・サンガ・カレンダー 2017年より)

 

 

森の中での生活は、日常の喧騒から離れ、日々無意識に受けている様々な刺激からも遠い環境に身を置いて、ひたすら瞑想修行に専念して、懸命に励んでいくのに適しています。

 

 

日常生活の中では、知らず知らずの間に多くの刺激を受けています。

 

その刺激は、心に多大な影響を与えています。

 

人の心はその影響されるところによって、さらに左右され、具体的な行動までもが影響を受けることになります。

 

まずは、この事実を知らなければなりません。

 

 

私自身も、毎日毎日、強い刺激を受けながら生活をしているのだということに、静寂な森の修行寺で生活をして初めて気づきました。

 

そして、瞑想をして初めて気づきました。

 

 

このようなクローズな環境の中へ入ると、実に様々な感情が吹き出してきて、苦悶することもあります。

 

日々受けている多くの刺激を遮断してから、心を落ち着かせるにもそれなりの時間が必要です。

 

 

森の修行寺とは、瞑想修行の場であり、『小欲知足』の実践、つまり欲を少なくして、足るを知る場でもあります。

 

わかりやすく表現すれば、シンプルライフを実践し、身につけるためのトレーニングの場であると言えます。

 

また、五戒や八戒を守ることに努める生活も、このシンプルライフを身につけるためのトレーニングです。

 

 

出家の生活とは、まさにシンプルライフの実践です。

 

 

きっとブッダ時代の比丘たちもまたこのような生活をし、修行に打ち込んでいたのではないかと、胸が熱くなりました。

 

 

(『森の修行寺での生活』)

 

 

タイで“瞑想”修行

日本で“迷走”修行

 

タイの森のお寺で3年間出家

 

“瞑想”修行と“迷走”修行を経て

おだやかな人生へとたどり着くまでの

赤裸々ストーリーをお届けします

 

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