タイのお寺には、多くのサーマネーンたちがいます。
サーマネーンというのは、見習い僧のことで、未成年の出家者、つまり少年僧のことです。
彼らは学業を終えると(そうでない場合もありますが)、還俗してそれぞれの家庭へと戻り、一般の在家者としてその後の人生を送る者も多いのですが、そのまま還俗することなく、比丘(成人の僧侶、一人前の僧侶)となって、一生を出家者として過ごす者もまた多くいます。
お寺にいるサーマネーンたちは、日本でいえば、小学生や中学生くらいから20歳までの年齢です。
多感な青春時代である中学生や高校生たちです。
私は、彼らとともに過ごして、たくさん話す機会がありました。
彼らのほとんどが、寂しいとも、家族が恋しいとも言ってはいませんでした。
中学生や高校生といえば、日本であれば、恋愛に憧れる年頃でしょうか。
それとも、クラブ活動に邁進するのでしょうか。
ところが、彼らの口からは、女性に関する話題を一切聞くことはありませんでした。
もっとも、「出家」という立場から、そのようにしているだけなのかもしれません。
お寺の学校は、もちろんお寺の一部であって、“お寺”そのものなので、教師を除いて女性と接触する機会は一切ありません。
サーマネーンといえども出家者だからです。
私にタイ語を教えてくれた、とても親切な私と同い年の青年比丘がいました。
彼は、青年比丘ながら、出家歴は長く、すでに出家者としては大ベテランです。
小学生か中学生くらいの頃に、実家の近くのお寺で出家をしたと言っていたように記憶しています。
そんな彼も、女性には一切興味がなさそうでした。
どうしてなのでしょうか?
私は、とても不思議でたまりませんでした。
女性に関心のない比丘は意外に多いです。
(関心がある比丘も多いですけれどもね。)
私が出会った中では、サーマネーンの頃から長く出家生活を送ってきた比丘ほど、比較的女性に関心が薄い者が多かったように感じています。
私の偏見かもしれませんが・・・。
それは、「性」というものを意識し始める前から「性欲」という“危うき”に近づかない環境に身を置いてきた結果からなのか、あるいは少年期より「性欲」とは“妄想”であると繰り返し教えられてきた結果からなのでしょうか。
一度知ってしまったら容易に抜け出すことができない。
そのような一面が性欲にはありはしないでしょうか。
何事にも言えることなのかもしれませんが、はじめから知らなければ知らないで、とても楽なのです。
性欲というものもまた、何割かはそれに該当するのではないかと感じました。
深く根を張っている性欲というものを考えた時、もしかすると知らず知らずのうちに(社会的に)教えられてきた側面があるのではないかとも感じました。
異性を教えられていないから、比較的容易に性欲から離れることができるのではないだろうか・・・と、苦悩に沈む私は、そのように思わずにはいられませんでした。
はたして、どうなのでしょうか?
家族と離れて生活し、決して好き勝手にはできないお寺での生活。
若くて育ち盛りの彼らにとっては、窮屈極まりないかもしれない生活であるにもかかわらず、この明るい顔は一体何なのでしょうか。
きっと、一度、目にしたら忘れることができないはずです。
あの活き活きとした姿、そしてとても輝いた彼らの姿を今も忘れることができません。
(『タイで出会ったある少年僧』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”から“迷走” そして“瞑想”へ
自己を探究していくお話を
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