新・タイ佛教修学記

どこへ行っても煩悩の国

2020年8月11日

 

なぜか、タイのお坊さんたちの顔は、実にすがすがしくて、実に晴々としているように見えます。

 

この清々しさは、一体どこから来るのか不思議にさえ思います。

 

 

私がタイの地を初めて踏んだ時から約20年。

 

瞑想修行に区切りをつけて、日本へ帰国して十数年が過ぎ去りました・・・

 

日本の社会の中で生活をしていて、タイの森林僧院での出家生活が私の中で美化されている部分もあることでしょう。

 

しかし、本当に、タイの森の修行寺での生活は、人間としての輝きがあったと思うのです。

 

そこは、やはり美化でも何でもなく、日本の社会と比較して、はっきりと感じ取ることができる部分だと思います。 

 

 

さて、私は、自分が起居していたクティ(小屋)に、いくつかの死体の写真を置いていました。

 

具体的にどのような写真を置いていたのかは、ご想像におまかせします。

 

 

もちろん、瞑想実践のためのものではあるのですが、日本の常識からすれば、まさに狂気だとも言えるのかもしれません。

 

おおよそ理解されるものではないと思います。

 

そのような写真を部屋の中にいくつも並べていました。

 

 

何のためにそのような気持ちの悪い写真を並べていたのかと言えば、この身もまたやがては死にゆき、写真の彼のように変化し、滅しゆく身であるということを観察し、自己に言い聞かせていくためです。

 

あるいは、私のこの身体の中にも、目の前にある写真と同様に、汚くて、気持ちの悪いものが入っているのだということをはっきりと知るためにです。

 

 

つまり、私という身体の“真実の姿”を観察するためにそうした写真を置いていました。

 

 

ところが、やがては、部屋の中の単なる“景色”となっていきました。

 

“慣れ”というのは、そんなものなのでしょうか。

 

 

性欲は、まったく去ろうとはしませんし、死への恐怖もまったく去ってはいきません。

 

去るどころか、男のものとも、女のものとも判別が困難な腐りかけた死体を観ながら、勝手に生前の姿は美しい女性だと思って、麗しく艶やかな姿を想像してしまうというありさまでした。

 

死体の写真の生前の姿を想像してしまう・・・そうです・・・「勝手に」美しい女性の姿を想像してしまうのでした。

 

 

真実の姿を見破りきれていない私・・・。

 

 

「本質を見抜かなければ、全く意味がないですよ。」

 

 

・・・と、ある先生から諭されたことがありました。

 

 

性欲というものも、私の身体というものも、その本質は何なのかを正しく知って、その正体を見破ることができていなければ、いつ、どこに、誰といても、おだやかに過ごすことなどできないのです。

 

 

だからこそ、どこで生活をしたとしても、煩悩の国になってしまうのです。

 

 

これは、性欲だけに限った話ではありません。

 

何においても同じです。

 

 

私が見ているこの世界を煩悩の国としてしまうのか、安らかなるおだやかな国とするのか・・・

 

それは、やはり自己の気づき次第だということです。

 

 

何を書いても、何を言っても、所詮は私の言い訳にしか過ぎません。

 

煩悩の国へ帰る・・・それは、裏を返せば「私の気づきがなされていない」ということへの不安の現れです。

 

 

「私の気づきがなされていない。」

 

 

非常に情けないことですが、ただそれだけのことです。

 

本当にただこの一言に尽きるでしょう。

 

 

「気づき」がなければ、どこへ行っても煩悩の国です。

 

どこへ行っても苦しむ破目になるのです。

 

 

「本質を見抜かなければ、全く意味がないですよ。」

 

・・・先生から諭されたこの言葉が、今も私の心の中で響いています。

 

 

(『どこへ行っても煩悩の国』)

 

※アイキャッチ画像は、
『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より。

 

 

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