新・タイ佛教修学記

煩悩の国へ帰る

 

 

煩悩の国へ帰る・・・

 

いよいよ還俗してお寺を去るという日が近づいてきたある日。

 

 

お世話になった先輩のお坊さんやその友人のお坊さんたちと席をともにする機会がありました。

 

さらに、私を近隣にある他のいろいろなお寺へと案内してくれたり、彼らの先輩であるお坊さんたちやさらにその先生である長老のお坊さん方へも引き会わせてくれました。

 

今までずっと森のお寺で瞑想修行することしか知らなかった私にとって、ほんの束の間のとても楽しいひと時でした。

 

 

帰国の途につく私への励ましの意味を込めているのでしょうか・・・。

 

あるいは、もうじき還俗して日本へ帰るという複雑な思いが交錯している私の心を見抜いてのことなのでしょうか。

 

 

それは、今も私にはわかりません。

 

 

ただ、そこには彼らのとてもあたたかな気持ちがこもっていたということだけは、ひしひしと伝わってきました。

 

 

還俗して、帰国することを決めた私の気持ちを“一言”で表現することはできません。

 

 

周囲に対しては、病床にある父親を看病するために還俗して、日本へ帰国するのだと説明していました。

 

それも確かに理由のひとつではあります。

 

 

ある長老のお坊さんから言われました。

 

 

「いよいよ日本へ帰るんだな。どうだ還俗する気持ちは?」

 

 

「・・・本当は、還俗したくありません。

 

日本は、煩悩の国ですから。

 

煩悩につぶされてしまうのが恐いのです。」

 

 

「それは、タイも日本も同じだ。

 

タイだって煩悩の国だ。

 

親孝行をすることは、徳を積むことだ。

 

両親もきっと喜ぶことだろう。

 

還俗することは、決して悪いことではない。

 

還俗したからといって、何も恐れる必要はない。

 

五戒を守ってさえいれば、何も怖いものはない。

 

我々出家者は、二二七の戒を守っているが、五戒を守ることで十分だ。」

 

 

そのような会話を交わしたことをはっきりと記憶しています。

 

とても重みのある言葉でした。

 

 

あの時の会話を思い出すたびに、その五戒さえもしっかりと守れているのだろうか・・・と思うことがあります。

 

 

今、思い返してみますと、その時、「日本」のことを“煩悩の国”と表現したことについて、とても複雑に感じています。

 

なぜそのように表現したのかというと、その時の私にとっては、日本は、煩悩の国以外の何者でもなかったからです。

 

 

実にさまざまな“もの”で溢れている日本という環境は、心の奥で影を潜めている「煩悩」を刺激するに十分過ぎる環境ではありませんか。

 

そんな中に放り込まれれば、煩悩まみれになっれ、落ちるところまで落ちるに決まっている・・・そう思ったのです。

 

 

もっとも、煩悩をくすぐられるということも、ものごとの正体を見破り、まだ気づきがなされていないという自己の未熟さが原因ではあります。

 

なにも、日本の環境が悪いわけではありませんし、日本が煩悩の国であるというわけでもありません。

 

ただ単に周囲の環境のせいにしているだけです。

 

 

日本だけが煩悩の国であるというわけではありません。

 

日本もタイも同じです。

 

どこに身を置いていようとも全く同じです。

 

 

あなたは、私のこの迷いを見て、どのようにお感じになりましたか?

 

 

(『煩悩の国へ帰る』)

 

 

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