私がタイのお寺で出家を志した理由は、とてもはっきりとしています。
それは、より原点に近い仏教を学ぶためと、ブッダも実践したであろう瞑想を学ぶためです。
ブッダが歩んだ道と同じく、出家者として、そしてブッダが送ったであろう生活により近い生活を送りながら瞑想を学べば、より仏教を理解することができるかもしれないと考えたのでした。
大学卒業後、たくさんの本を読んでいくなかで、「瞑想」というものに心を強く惹きつけられました。
特にテーラワーダ仏教(南伝仏教)の瞑想の在り方に惹かれました。
さらに詳しくテーラワーダ仏教の瞑想について調べていくと、森のお寺という存在があり、森の中で瞑想の生活を送っている出家者がいるということを知りました。
私は、「これだ!」と直感しました。
森の中で質素な生活を送りながら瞑想に励む・・・この生活こそがブッダの時代から連綿と受け継がれ、実践され続けてきているものだ!
この生活を知れば、きっと今までにわからなかったことがわかるようになるはずだ!
このように思ったわけです。
もっとも、タイの森のお寺での瞑想の生活が、ブッダの時代そのままの生活なのかどうかは、誰にもわからないことです。
おそらく、ブッダの時代のものとは、全く違うのでしょうけれども、それでも、戒律が定めるところに従った、とてもシンプルな生活様式は、ブッダの時代に始まるインド以来の伝統を今の時代に引き継ぐものです。
ブッダの時代そのままの生活ではないにしても、より古い仏教の出家生活の様式であるということは言えます。
さて、タイの森のお寺での生活は、まさに“ないない尽くし”の生活です。
本当に生活していくのに最低限の“もの”しかありません。
“ないない尽くし”の生活なのですけれども、不思議と心は安らぎ、落ち着いて、とてもおだやかになって来るのです。
この時の不思議な感覚は、今でも忘れることができません。
私は、日本の生活のなかで、心が重たくなってきた時には、森のお寺での出家生活、すなわち、“ないない尽くし”の森のお寺での生活を思い出すようにしています。
すると、すーっと心が軽くなるのです。
これは、私にとって本当に必要なことなのかどうか?
今、私の目の前にあるものは、本当になくてはならないものなのかどうか?
いつも、そのように自分自身に対して問いかけてみるのです。
・・・すぐに“ねばならない”ことなど、この世の中には何ひとつないのだということに気づかされます。
しかしながら、現代社会でのことです。
やらなければならないことや必要なことばかりです。
森のお寺での生活のようにシンプルな生活とはほど遠く、不可能なこともたくさんあります。
“無理”なことに直面してしまうこともしばしばあります。
しかし、森のお寺での体験や学んできたことは、日本の社会生活のなかにおいても、大いに役立つことばかりです。
なかでも、自身の心の整え方を身につけているのか、身につけていないのかは、とても大きいと思います。
一度、出家をしてお坊さんになったら、還俗をしてお坊さんを辞めてしまうことは、挫折したことに等しいものだと思っていました。
でも、タイではそのようには捉えません。
私の考え方も間違っていました。
瞑想の“智慧”というものに改めて気づいた今は、社会の中で生活をしていくからこそ、出家生活ような精神的な生活の経験が必要なのだと考えるようになりました。
これは、確かなことだと私は考えいています。
しかし、全ての人に必ずしも必須のものであるとは思っていません。
私にとっては、森のお寺で出家するという「過程」が必要だったというだけのことです。
いつであっても、どこにいたとしても、“その気”があれば、学んで身につけることができるものです。
“その気”とは・・・自分自身を観ようとすることです。
そして、観察していこうとする姿勢です。
これらは、お寺の中や森の中でしかできないことではありません。
今、家の中にいたとしても、会社や職場にいたとしても、実践していくことができます。
たとえ、実践することが難しかったとしても、心がけることくらいはできるはずです。
私は、森のお寺での学びを忘れません。
静かな森の中での生活と、忙しい社会の中での生活は、一見すると背反する全く正反対の別世界であるかのように思えるのですが、実は全く同じ世界です。
たったひとつの違いは、「自身がどうあるか?」という一点だけです。
ぜひ一度、自分自身に問いかけてみてください。
きっと、気づきと深い学びがあるはずです。
(『どこにいても自分次第』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”から“迷走” そして“瞑想”へ
自己を探究していくお話を
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