私の認識が甘かっただけなのか、それともタイの出家生活と日本の社会生活とのギャップが大きかったのか・・・それは、私にはわかりません。
お金がなければ、生活できないという、今さら悩むべき問題ではないはずの問題に直面してしまいました。
やはり、私の認識が甘かったのだと言わざるを得ないかと思います。
タイの出家者、すなわち比丘やサーマネーン(沙弥・しゃみ)たちは、
『金銀(お金)の受領より離れる戒を保持する。』
という戒律を守りながら生活を送っています。
つまり、金銭を所持せず、金銭に触れることさえもない生活を送らないといけません。
出家者は、戒律によって“原則”として「お金」を持てないのです。
貨幣経済が高度に発達した現代社会では、難しい場面もありますが、それでもできる限りお金から離れることに努め、周囲の者たちも、できる限り出家者にお金から離れた生活をさせるようにと努めてくれます。
意外に思われるかもしれませんが、お金を所持しないということは、それほど苦痛なことではありません。
にぎやかで、華やかで、さまざまな品物が並べられていて、溢れるほど物が売られている町や村の市場を通りかかったとしても、不思議と何も欲しくはなりませんでした。
はじめからお金を所持していませんので、そもそも買うことができません。
そのため、それほど欲しいという気持ちにはならないのです。
これほどまでに「欲しい」という思いが薄くなるものなのかと我ながら驚きました。
人間の有する限りない「物欲」から離れるための第一歩なのだと感じました。
出家者は、ごくわずかの物品を除いて、物を所有することが許されていません。
身の回りには、常に少しばかりの物しかありません。
いつでも、どこへでも、すぐに移動ができます。
今すぐにでも、行脚の旅に出ることができるほど、少ない持ち物しか所持していません。
まさに、裸一貫、無一文の生活です。
出家の世界へも、じわりじわりとお金の足音が近づきつつある現代のタイではありますが、それでもそうした出家生活を支援して、応援してくれる土壌があるのというのがタイの社会です。
なぜならば、それが出家者のあるべき姿であり、それが本来の出家者のあるべき生き方であるということを社会全体が知っているからです。
そうした生活を“一時出家”という形で一生に一度は誰もが経験をする・・・素晴らしきタイの習慣だと私は思います。
さて、私は、このような出家生活を3年間送ってきました。
たったの3年間です。
再び日本の生活の中へと戻ることが、これほどまでに苦しいことだとは思いもしませんでした。
私にとっては予想以上のギャップでした。
仏教への思いがとても強くて、出家の喜びが大きかっただけに、この落差がかえって激しくなり、苦しむことになってしまったことは、なんとも皮肉な結果でした。
(『大きかった出家生活とのギャップ』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”から“迷走” そして“瞑想”へ
自己を探究していくお話を
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