新・タイ佛教修学記

生きる意味がわからない

2020年7月4日

 

目標を失う・・・。

 

目標や目的のない人生を生きることなど果たしてできるのでしょうか?

 

 

帰国後、私がタイでの出家生活と日本での生活とに激しい落差を感じ、大きく崩れてしまいました。

 

全てを見失ってしまったのは、新たな目標を見い出すことができなかったことが大きかったのではないかと思っています。

 

 

何かを支えにして生きているのが人間です。

 

何かを支えにして立っているのが人間です。

 

 

ものごとに意味を与えて、そして意義を与える・・・。

 

そうしなければ、生きていけないのが人間です。

 

 

・・・そうではありませんか?

 

 

ところが、目標にしても、目的にしても、意義にしても、実はそれらは自己が作りあげた単なる妄想でしかありません。

 

単なる思い込みでしかない、ということなのですね。

 

全ては自己の感情が作り出した妄想です。

 

妄想を妄想であると見抜いて、真の苦しみの正体を見極め、それらを滅する道。

 

そして、より善き人生を生きる・・・それが仏教です。

 

 

妄想を妄想であると見抜いて、真の苦しみの正体を見極めるための心のトレーニング。

 

その心のトレーニングこそが「瞑想」でした。

 

 

本来であれば、どこまでも冷徹に自己を観察して、どこまでも客観的に自己を観ていかなければならないのです。

 

心を育てながら、冷静な判断と最善の選択を重ねていくことで、より善き人生を築いていくことができるのです。

 

 

このような「人間の本性」や「心の本性」というものは、大学で仏教を学んだ際に知ったはずでした。

 

また、タイでの瞑想実践の中で学んだはずでした。

 

 

帰国後、まだ間もない頃の私であっても、そのようなことくらいは、おぼろげながら理解をしていたはずです・・・。

 

 

そう、理解をしていた“はず”なのです。

 

 

還俗後の生活はどうでしょうか。

 

そうしたことを見抜きながら生きることができていたでしょうか?

 

 

その答えは、日本へ帰国してから嫌というほど見せつけられることになりました。

 

 

生きる意味すらわからない・・・

 

 

そんな余裕のない私に苦しみの正体など見抜けるはずもありませんでした。

 

“生きる意味”でさえも、所詮は自己が勝手に与えた価値観に過ぎない・・・

 

そうは言っても、その“生きる意味”がわからなかったら、人は立っていることすらできないのです。

 

 

私は、立っていることができませんでした。

 

ただ辛くて、地面をのたうちまわることしかできませんでした。

 

その結果・・・実に紆余曲折を経験することになりました。

 

なかでも、生活の基盤となる仕事(≒お金)のことでは、大変な苦労をすることとなりました。

 

転職を繰り返し、仕事を転々としました。

 

転職を重ねれば重ねるほど、労働条件は悪くなっていきます。

 

今でいうところの“ブラック企業”に何度か就職したこともあります。

 

 

気がつけば、組織ぐるみで堂々と法令違反をしている会社で働いていました。

 

法令違反をしているらしいと社内で囁かれるようになり、ひとり、またひとりと会社を去っていきました。

 

やがて私も、その会社を去らなければならない状況となり、その会社を去りました。

 

その後、その会社は新聞に取り沙汰され、行政処分を受けることに・・・。

 

 

数十人単位の集団離職が起きた会社で働いたこともありました。

 

しかも、複数回、同じような事態が起こりました。

 

職場から数十人単位で人がいなくなると、仕事にならなくなります。

 

なかば巻き込まれるような形で、私も何度目かの集団離職の人たちと一緒に退職することになりました。

 

さまざまな職場を経験しましたが、数十人単位の集団離職なんて、そうそう起きるものではありません。

 

 

ヤクザまがいの会社で働いたこともあります。

 

不幸中の幸いで、私に直接被害が及ぶことは少なかったです。

 

激しく怒鳴りつけられ、暴力をふるわれる同僚を見て、恐怖に震えあがりました。

 

何かあるたびに事務所へと呼び出されて、ガラス製の灰皿を投げつけられました。

 

意義を申し立てれば、即刻クビにされ、次の日には姿がなくなる・・・。

 

恐怖におびえながら勤務し、やっとの思いで退職。

 

会社と縁が切れた事に安堵したことを鮮明に記憶しています。

 

 

体調を崩して、40度近くの熱が出ても仕事を休ませてもらえない会社もありました。

 

休ませてもらいたい旨を伝えると、

 

 

「欠勤することは許さない。

 

いつも通りに出勤しろ。」

 

 

と、冷たく対応されました。

 

果たしてこの会社は、私の身体をどのように思っているのでしょうか。

 

さすがにこの時ばかりは、会社に殺されると本気で思いました。

 

 

しかし、会社を辞めれば収入がなくなってしまいます。

 

生活ができなくなってしまいます。

 

 

迷いました・・・。

 

しかし、命あっての労働です。

 

身体が健康でなければ、働くことすらできません。

 

退職しました。

 

 

ついに無職となってしまいました。

 

 

振り返ってみれば、不思議な出来事ばかり遭遇してきたものです。

 

思わず自分自身に失笑してしまうほどです。

 

 

世間では、「正社員を一度辞めると、再び正社員に戻る事は困難だ」などと言われていますが、あながち間違いではないと感じました。

 

 

資格もない、職務経験もない。

 

賃金も下がる。

 

採用されない。

 

 

悪循環です・・・。

 

 

何ヵ月間も無職で過ごし、何をするということのない日々を過ごしました。

 

先の見えない無職の生活は、まさに恐怖でしかありません。

 

どこか自分の存在を完全に否定された感すらあります。

 

精神的にも、とても辛かったです。

 

社会から必要のない人間だと烙印を押されたかのようでした・・・。

 

何をしたいというわけでもありません。

 

どこへ行きたいというわけでもありません。

 

動けば動くほど転落していく自分の姿が、本当に情けなかったです。

 

しかし、生きねばなりません。

 

働かねばなりません。

 

お金を稼がなければなりません。

 

 

働かなければ、生きていけません。

 

堂々と街を歩くこともできません。

 

人間だと胸を張って生きることができないのです。

 

 

ところが、もう、私にはその自信もなければ、生きる勇気もありません。

 

気力もありません。

 

 

目の前に広がる恐ろしい暗闇を前に、ただただ立ちつくすことしかできませんでした。

 

 

泥沼の人生・・・そんな文字が頭に浮かびました。

 

もがけばもがくほど沈んでいく・・・。

 

それはまるで暴れれば暴れるほど引きずり込まれていく“アリ地獄”のようでした。

 

 

明日はどうしようか。

 

明日は何をしようか。

 

 

私はこの先、一体どうなってしまうのでしょうか・・・ただただ恐ろしかったです。

 

 

嗚呼・・・

 

こんな状況の私に冷静な判断などできるはずがありません。

 

安らかなる心。

 

おだやかなる心。

 

こういう時こそ冷静な判断ができなければなりません。

 

おだやかな心を保つことができてこそ仏教の実践ではありませんか。

 

 

追いつめられた時こそ、その人の本性が現れる。

 

本当の自己の姿がわかります。

 

 

崖っぷちを崖っぷちだと思わずに堂々と歩けてこそ、本物の仏教的生き方をしている人間。

 

 

全くできていないではありませんか!

 

 

タイでの出家は一体何だったのでしょうか。

 

懸命に励んできた瞑想は、一体何だったのでしょうか。

 

 

全く元の木阿弥ではありませんか。

 

全てが無意味だったではありませんか。

 

 

私は、一体何だったのでしょうか・・・

 

 

(『生きる意味がわからない』)

 

 

 

タイで“瞑想”修行

日本で“迷走”修行

 

タイの森のお寺で3年間出家

“瞑想”から“迷走” そして“瞑想”へ

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