悟りには少しでも近づくことができたのでしょうか?
出家をして一体何が得られたのでしょうか?
心の成長があったのでしょうか?
タイで学んだことはあったのでしょうか?
周囲の人からは、よくこのように質問されます。
そのたびに、とても心が痛みます。
心が痛むのは、私自身がその答えをよくわかっているからです。
よくわかっているからこそ、非常につらい問いかけなのです。
答えがよくわかっていることが、またさらに私自身の心を苦しめました。
さまざまな意味で・・・。
これらの問いに対する答えは、「何も変わっていない。」です。
「元の木阿弥」です。
ブッダに憧れて、少しでも悟りというものに近づきたくて、そして少しでもおだやかな心になりたくて・・・仏教というものを体得したくてタイへ行きました。
しかし、見事に挫折しました。
全てが崩れ去りました。
還俗後も、出家前と何も変わりません。
日常生活の中では、落ち込むこともあれば、怒ることもあります。
心が乱れて、感情の言いなりになることもあります。
それが一度は出家を志した者の行動なのかと、はなはだ疑わしくなってしまうような行いもあります。
しかし、それが紛れもない自己の姿です。
出家前の私と何ひとつ変わるところがありません。
感情の濁流に飲み込まれるたびに、タイでの出家は一体なんだったのだろうかと、そのように考えることがあります。
その度に自己嫌悪に陥ってしまうのでした。
自分自身でもよくわかっています。
だからこそ、悔しくて、情けなくて、辛いのです。
単に自己満足のためにタイまで行ったのでしょうか?
「違う!」と言いたいのですが、結果的には、そのようになってしまったのかもしれません。
いや、そのようになっているからこそ、言葉がないのであり、感情が乱れてしまうのです。
それを素直に認められるほど、私の心は完成されていませんし、心に余裕がありません。
思わず自分自身に失笑してしまいます。
すでに全てが崩れ去ったことを自覚させられる瞬間です・・・。
おだやかな心。
単に瞑想している時だけ、おだやかな心が保たれているだけではいけません。
今、生きているこの瞬間、今のこの心がおだやかでなければなりません。
歩いている時も、食事をしている時も、他者と会話をしている時も、眠りにつく時も・・・。
行住坐臥、全ての場面において、おだやかでなければなりません。
実生活の中においても常に平静で、おだやかな心を保っていることができなければならないのです。
腹が立つことを言われたとしても、困難な場面に遭遇した時も、思いもよらないことに出会った時も・・・どのような時であっても常に平静な心でいることができなければならないのです。
いつも客観的にものごとを観ることできて、冷静な判断を下すことができなければならないのです。
しかし、それは、出家中の比丘であっても、世俗で生活を送る在家の者であっても変わらないはずです。
変わるはずのないことです。
結局は、おだやかな心にはなれませんでした。
もしかすると、私には悟りに近づける能力すらなかったのかもしれません。
父との関係(介護問題)は、単なる理由付けにしか過ぎなかっただけなのかもしれません。
本当は、自分には歩めない・・・はるかなる道、大いなる道に打ちのめされてしまっただけなのです。
瞑想修行に挫折をしたのです。
私には、徹底して観察していくことができなかったのです。
還俗を決意して、自らの意思で還俗しました。
そして、日本へ帰国しました。
進むべき道もわからない・・・
目指すべき目標もない・・・
これから一体何をしたらいいのかもわかりません。
生きる意味も、意義もわかりません。
日本へ帰国して、再び日本での生活が始まりました。
そこで路頭に迷う自己の姿を痛烈に思い知らされることになったのです。
痛烈に思い知らされる・・・。
世の中は、なかなか厳しいものです。
たとえ、痛烈に思い知らされたところで状況は何も変わりません。
進むべき道がわからなくても、目標がなくなってしまっても、何をしたらいいのかがわからなくても、どれだけ苦しかったとしても、この私自身が、今この日々を生き抜いていかなければなりません。
(『全てが崩れる』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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