瞑想修行のなかで、最も苦しかったことのひとつ・・・
私にとっては、「眠気」でした。
何が苦痛なのかということは、人によって異なるかと思います。
私のように、すぐ眠気に襲われて、大変苦労する人もいれば、それほど眠気には苦労をさせられることもなく、瞑想へと入ることができる人もいます。
私が出家中に出会った比丘の中には、“過度”に「食べ物」に対して執着を持っている人や、“過度”に「物」に対して執着を持っている人がいたことをよく覚えています。
あえて“過度”にと表現したのは、その執着ぶりが尋常ではないと感じたからです。
今でも強く印象に残っていることを考えると、やはり相当“過度”であったに違いありません。
食べ物にしても、物にしても、欲しいか欲しくないかでいえば、やっぱり欲しいでしょう。
ですから、その執着も理解できなくもありませんが、そこまで“過度”な執着は持っていない私からすれば、「なぜそこまで?」と感じるわけです。
当人にとっては、大変な苦痛だったかもしれません。
このことからも、人によって苦痛の度合いや執着の度合いが大きく異なるということがわかります。
これらは、今までの生活習慣によって身についてしまった、いわゆる後天的なものとして理解すべきものなのでしょうか。
あるいは、天性の個人の性質であって、前世から引き継がれてきたものとして理解すべきものなのでしょうか。
・・・それは、私にはわかりません。
ただ言えることは、私は眠気に襲われやすくて、集中することが苦手なタイプの人間であるということだけです。
この眠気は、生活に慣れるによって解消されることはなく、またあらゆる対策を講じても解消されず、私の出家生活の全体を通して悩まされ続けることになりました。
さて、「眠気」については、ひとつちょっとしたエピソードがあるので紹介したいと思います。
ある森の修行寺で、“眠らない修行”というものを実践したことがあります。
常に眠らず、いつも覚醒した状態を保つことで、サティの力をより高めることができるのだといいます。
また、ひたすら眠気に耐えるという苦しみの感情を観ていくことで、感情も無常だということを観る力をより高めることができるのだといいます。
必要以上の睡眠は、いうまでもなく煩悩です。
私の場合は、ある一定期間を定めて、一日に2時間の睡眠に絞って実践しました。
2時間の睡眠も、横になって眠ってしまっては、ついつい長く眠ってしまうため、壁にもたれて眠ることにしました。
壁にもたれてなど眠れるものかと思っていましたが、眠いとなればどこででも眠れるものです。
簡単に眠りに就くことができました。
ひたすら目を覚ましながら瞑想に励みました。
懸命にサティに努めました。
強い眠気が襲ってきたら、すぐさま歩行瞑想に切り替えて対処しました。
眠らない瞑想の実践は、本当に辛かったです。
“目を覚ましている”ことだけで精一杯でした。
すぐに眠たくなるのです。
そして、身体が途轍もなく怠くなるのです。
目覚めさせる方法として、瞑想指導者である先生から示された方法がいくつかあります。
・歩行瞑想を行う。
・姿勢を正す。
・身体をゆっくりとまわしたり、前後左右へとゆっくりと揺らす。
・首をゆっくりとまわす。
・目を開けて明るい光を見る。
・頭を働かせる。
・・・例えば、自己の身体の観察をしたり、不浄観を修したりする。仏法のことを考える、など。
・お経を声に出して読む。
・数珠の玉を数える。
・気分転換を行う。
・・・例えば、水浴びや掃除をする、など。
眠くなってきたら、これらの方法をその時の状況に応じて実践するようにとのアドバイスを受けました。
ところが、全て実践してみたのですが、やはり「眠気」はそう簡単には退散しませんでした。
「睡魔」と呼ばれるだけあって、なかなか手ごわいです。
最終的には、ひたすら歩行瞑想を実践する方向へ切り替えることにしました。
もし座れば、5分も経たないうちに、すぐに眠りの中へと入ってしまうからです。
いや、2、3分もすればすぐに眠ってしまうのです。
ところが、歩いていていれば眠気に襲われないのかといえば、やっぱり眠りに入ってしまうようになってきました。
歩きながら眠りに入ってしまうという状況を想像できますか?
歩きながら強い眠気に襲われるたびに、何度も何度もフラフラとよろけてしまうのです。
そして、何度も何度も足を踏み外したり、こけそうになったり、柱にぶつかりそうになったりするのです。
ついには、歩行瞑想をしながら眠ってしまい、倒れて血を流してしまいました。
いつの間にか、歩きながら眠ってしまったのです。
眠ってしまったことにすら気がつきませんでした。
歩行瞑想をしていて、突然、バンッという強い衝撃を感じました。
壁にでもぶつかってしまったのかと思っていました。
ふと我に返ると、地面に倒れていることに気がついたのです。
なんと、血を流しているではありませんか!
倒れた時にあごを切っていたようなのです。
あぁ、眠ってしまったのか・・・と思いました。
眠りに入った瞬間に、身体全体の力が抜けてしまい、倒れてしまったのでしょう。
この時ばかりは「睡魔に負けた!」と思いました。
眠気には何をしても勝てませんでした。
眠気とうまく付き合うことができませんでした。
眠い時は何をしても眠たいものなのか・・・。
周囲で瞑想していた人たちが「大丈夫か?」と言って、駆け寄って来てくれました。
そして、介抱してくれました。
私がそう思ったように、看板が倒れたかのような大きな音がしたから、驚いて飛んできたそうです。
この時の悔しさと言いますか、敗北感と言いますか、なんとも言えない複雑な気持ちは今も鮮明に覚えています。
“眠らない修行”というのは、少々極端な修行なのかもしれません。
タイでも決して主流ではありません。
しかし、ごくごくわずかではありますが、人知れずこうした修行を続けている比丘がいるらしいという話は何度も聞いたことがあります。
自身の体験から、ひたすらこのような実践を続けているとは驚きだと思いました。
タイでは、ストイックになればなるほど尊敬される傾向があります。
それゆえ、こうした人知れず修行に明け暮れる者の噂は広まりやすいのです。
私も、この一件があってから、しばらくの間、周囲の人たちから「お前はすごいぞ!」といった言葉をかけられて、とても褒められました。
褒められること自体は嬉しいことなのですが、心中はとても複雑です。
サティの力をより高めることができたわけでもなく、苦しみの感情を観て、感情の無常を観る力を高めることができたわけでもない。
まして、おだやかな境地へと至ったわけでもない。
なんの進歩もしていないではありませんか。
ただ単に眠気に負けてしまっただけです。
この実践で、もし、何か得たものがあるとすれば、「“眠らない修行”に挑戦したのだ」という、一種の達成感にも似たような感情、すなわち慢心と思いあがりの心を増幅させただけです。
人が実践しないことを実践することに快感を見出す・・・さらに「お前はすごいぞ!」という周囲からの声に酔う。
悔しいけれども、なんとも皮肉な結果でした。
自己の欲求のままに睡眠をとるのであれば、それは単なる「欲」であって、煩悩に流されているに過ぎません。
欲求のままに流されることを継続するならば、それらは悪い習慣となって身についてしまうでことでしょう。
そして、身についた悪い習慣は、やがては人生そのものとなってしまいます。
適度な睡眠をとりながら、自己を律していくことが必要です。
それでは、瞑想中、眠気に襲われた時にはどのように対処すればよいのでしょうか。
ここに紹介したエピソードは、少々特殊な実践ですので除外するとして、通常であれば、私が瞑想指導者である先生から目覚めさせる方法として示された上記の方法を実践することで、おおむね対応が可能かと思います。
あとは、本人がどこまで強い意志を持って瞑想実践に取り組んでいくかの問題です。
それでも、どうしても対処できない場合は・・・。
それは、さらに高度な集中力を身につけるか、“瞑想の喜び”を得る段階にまで到達しなければ、越えられないのではないかと思っています。
そうでなければ、眠気を越えることは難しいのではないでしょうか。
例えば、好きなことや楽しいことに取り組んでいる時間というのは、眠くはならないはずです。
瞑想もそれと同様で、まずはその段階へと至ることが必要なのではないかと思います。
ところが私は、残念ながら、この段階にまで到達することはできませんでした。
しかし、これはあくまでも“段階”であって、瞑想の目標ではありませんし、目的でもありません。
ここは、くれぐれも肝に銘じておきたい大切なところです。
繰り返しになりますが、大切なのは自己の身体の動きや感情の動きをよく知り、よく気づくことです。
そのためには、しっかりとサティを続けて、身体の動きや感情の動きをよく観察していくしかありません。
そして、常におだやかであり、冷静であらねばなりません。
そこを身につけていくことこそが仏教の瞑想です。
私の出家生活の全体を通して「睡魔」は、最大の「壁」であり、最強の「敵」でした。
私は、眠気を催しやすくて、集中することが得意ではない人間です。
今もそうです。
睡魔にはめっぽう弱い私です。
(『眠気』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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