新・タイ佛教修学記

一時出家の意義に気づく

 

一時出家なんて意味がない。

 

還俗が前提の出家なんて意味がないじゃないか。

 

一度、出家をして比丘となったのならば、一生比丘を続けるものだ。

 

 

・・・以前は、そのように考えていました。

 

 

ブッダの時代は、どうだったのでしょうか。

 

すでに2500年以上も前のことで、詳らかなことを知る者は誰もいません。

 

 

仏典の中には、さまざまな人の出家に関するエピソードの記述はあっても、還俗に関する記述はありません。

 

はたして、ブッダの時代にも還俗する者はいたのでしょうか。

 

ご専門の方や詳しい方がいらっしゃれば、是非ともご教示願いたいと思います。

 

 

さて、私もタイで出家をして、還俗しました。

 

結果的に「一時出家」となりました。

 

 

日本へ帰国してからしばらくの間は、心の整理がつかなかったこともありましたが、日本での日常を生きるなかで、この「一時出家」に対する見方が変わってきました。

 

還俗が前提の出家など意味がないと思っていた私でしたが、こんなにも意義深いものだったのかという驚きにも近い思いを抱くに至りました。

 

 

タイの出家生活にも様々な変遷があったことと思います。

 

今も昔も変わらない出家生活とは言いながらも、数百年前と現代とでは、やはり同じではありません。

 

まして、はるか2500年以上も前のブッダの時代の出家生活と同じであるはずがありません。

 

 

このブログに記していることは、私が経験してきたことを通して、今に生きる私が感じていることがらです。

 

 

タイでは、一時出家をもって一人前の成年男子として認められます。

 

私もタイで生活をしていれば、出家を済ませた一人前の成年男子です。

 

一人前の「男」として、胸を張って歩くことができます。

 

 

タイでは、あらゆる年齢層からの出家者がいて、特にこの年齢で出家しなければならないという決まりがあるわけではありません。

 

しかし、出家するのに望ましい年齢層というのはあって、例えば結婚前など、比較的若い年齢でもって出家を済ませておくほうが良いとされています。

 

 

私は、この一時出家の習慣は、単なるタイの習慣であるとしか思っていませんでしたが、なぜ、出家を済ませることで社会的に一人前の成年男子であると認められるのかということが、今ではよくわかります。

 

 

日常の在俗生活から離れて「出家」の生活を送る。

 

出家の生活とは、経済活動をせず、金銭からも離れた生活です。

 

もちろん、今までの人間関係からも離れた生活となります。

 

それは、ある意味では異空間の生活でもあります。

 

 

静かに瞑想をする。

 

静かに仏法を学ぶ。

 

仏法を学ぶとは、人生を学ぶことであり、自己を学ぶことに他なりません。

 

 

そうしたおだやかで、静かな時間を過ごしていくなかで、人生において大切な“ものごとの捉え方”というのものを学び、身につけていくのではないでしょうか。

 

 

私は、還俗後、日本へ帰国してから実に多くの“出来事”と出会いました。

 

苦悩の前では、仏教や瞑想など全く意味がないとさえ思うことも多々ありました。

 

 

そのたびに・・・タイでのおだやかな出家の日々を思い出すのでした。

 

何度、涙したかわかりません。

 

 

深い深い苦悩は、自己の心が見ていることであり、自己の心が作り出しているものではありませんか。

 

その時、今の自己の姿や今の自己の感情がいかなるものなのかを観察することの大切さに気づかされました。

 

 

瞑想している時だけではありません。

 

おだやかに過ごしている時だけではありません。

 

現実に生活している中でこそ「気づき」がなされて、保たれていなければなりません。

 

 

これからさまざまなことに出会うであろう若者たちが成人となる通過儀礼として、タイでは「出家」というものがあります。

 

それは、人が力強く、幸せに、そしておだやかに生きていく術を身に付けるために大切なものなのではないかと感じました。

 

 

それは、在家で生活を送っていくからこそ必要な「智慧」なのだと思います。

 

苦海の荒波を越えてゆくための、大いなる「智慧」なのではないかと思うのです。

 

 

人生の「理」を知って生きていくことは、まさに宝物を得ることに等しいものです。

 

実際に、そのことを自覚するタイ人は少ないのかもしれません。

 

あるいは、私が勝手にそのように感じているだけに過ぎないのかもしれません。

 

「俺は、出家なんか嫌いだ。」と言い切ったタイ人にも出会ったこともあります。

 

 

しかし、私は、確実にタイの人々の間には、こうした人生の宝物を得た人たちがたくさんいるように感じました。

 

 

一時出家の意味や意義は、多くの学者や研究者たちが「学術的に」指摘しています。

 

また、さまざまな学術書や仏教書にもたびたび記載されています。

 

しかし、それらはあくまでも“学問”の範疇を出るものではありません。

 

 

比丘とは、法の実践者であり、真理を学ぶ者であり、悟りを目指す者です。

 

比丘ではなくても、真理を学び、真理に沿って生きていくことはできます。

 

それが、在家の仏教者としての生き方です。

 

 

仏教の価値観を身につける。

 

人生の「理」を知り、学ぶ。

 

 

これだけで人生の中で出会う、どれだけ多くの問題を越えることができるでしょうか。

 

家庭生活のうえにおいても、社会生活のうえにおいても、よりおだやかで、より幸せで、そしてより心豊かに人生を送っていきたい。

 

誰もが願っていることです。

 

人間が抱く、ごく自然な願いではありませんか。

 

 

タイの人たちが出家を終えた時の思いと私の思いとが同じであるというわけではないと思います。

 

ここに書いたことは、タイで一時出家を経験して、日本で今を生きている一人の日本人である「私」が感じたことです。

 

私の経験してきたことを通じて、この瞬間まで歩んできた人生のうえで感じたことです。

 

 

ここに一時出家という習慣がタイで現代まで伝わっている意味があるのではないかと思いました。

 

 

(『一時出家の意義に気づく』)

 

 

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