瞑想に興味や関心を抱かれる方の多くは、自分の何かを変えたい、自分にはない何かを得たい・・・心のどこかにそのような思いがあるのではないでしょうか?
もちろん、私もそうでした。
瞑想に取り組んでいるのは、何かしらの“変化”のために取り組んでいるといっても過言ではありません。
成果や成長を得たいと思うのもごく自然な感情でしょう。
もし、瞑想に取り組んだとしても何も得られないということであれば、瞑想する必要など全くありませんし、意味もなくなってしまいます。
世の中には、瞑想することで何か特別な力を得ることができるようなことを大いに期待させる謳い文句もしばしば見かけます。
あるいは、瞑想に取り組むことで劇的な変化をもたらすように紹介しているものもあります。
しかし、劇的な変化を目的とするような瞑想は、すでに仏教の瞑想ではありません。
“特別な力”を得たいと思ったり、“劇的な変化”を望んだりすることは、非常に危険なことだということを認識しておくべきです。
なぜならば、瞑想にそういった方向性を望むことは、強い執着を生むばかりでなく、傲慢な心を育てることにつながるからです。
そもそも、“特別な力”や“劇的な変化”を求めたところで、問題の根本的な解決にはなりませんし、真の目覚めが得られるわけでもありません。
ところが、人間は問題を抱えている時や困難な状況に直面した時、行き詰った状況や追い詰められた状況にある時ほど、偏狭な思考回路に陥りやすく、こうした甘くて魅力的なフレーズに惹かれやすいというのもまた事実です。
劇的な変化を得て、劇的に人生を変えたい。
苦しい時ほど、淡い期待に全てをかけてみたい。
・・・そのように思うものです。
なんと弱くて、自己を見失った姿なのでしょうか。
私も、例外ではありません。
仏教や瞑想をしっかりと学んできたつもりです。
しかし、いとも簡単にそうしたフレーズに魅力を感じて、惹かれてしまうわけです。
そのような時・・・
「気づきの心」こそが拠り所となるのではないでしょうか。
荒れ狂う自己の感情・・・
「気づきの心」は、そうした自己の感情に巻き込まれてしまう頻度をより少なくしてくれます。
「気づきの心」をしっかりと保っていくことで、心の落ち着きと冷静さを育ててくれるのです。
私は、タイでの瞑想修行を経て、今、日本でごく普通に生活をしています。
その紆余曲折の日々は、とても恥ずかしくて、情けないものです。
自分の力ではどうしようもない状況に陥ってしまった時もありました。
嫌な人間関係もあれば、腹が立つ出来事もあります。
面倒で、やりたくもない仕事を被ることもあります。
そうした全ての経験を通じて思うことは、仏教の考え方やものごとの見方を基として、また仏教の瞑想をきっかけとして、「気づきの心」を身につけていくことが大切さだということです。
私も「気づき」が全く保てない情けない人間です。
しかし、そのような私でも、ほんの少しだけ「気づき」を意識していくことで、確実に善き方向へと向かうことができるんだということを実感するに至りました。
瞑想の意義や目的とは・・・
瞑想とは、より冷静に、より客観的にものごとを観るための心の訓練です。
自己の心の静まりと落ち着きを得るための訓練です。
すなわちこれは、瞑想の目的であると同時に、仏教そのものの目的でもあります。
仏教の究極的な目的(目標)は、いうまでもなく涅槃です。
悟りであり、完全に苦を滅することです。
そのための方法として「瞑想」があります。
この点だけは、しっかりと理解しておくことが必要かと思います。
劇的な変化や成果を得る必要はありませんし、求める必要もありません。
他人と比較する必要も全くありません。
時には自分の期待通りに運ばないという、苛立ちを感じることがあるかもしれません。
しかし、それも思い通りにしようとする自分勝手な“考え”にしか過ぎません。
劇的な変化や成果を得たいと思っている自分の心に気づく。
思い通りにしようとしている自分の心に気づく。
そうした心の動きに対しても、しっかりと観て、気づいていかなければなりません。
“そうした自分自身”の姿を正しく知っていくのです。
日々の行動や考え、感じ方やとらえ方を知って、気づくということを少しだけ心がけてください。
自分の癖に気づく。
自分の身体や心の動きに気づく。
すぐにおだやかな状態になることは、容易なことではありません。
しかし、今の自分にできることから、今の自分のすぐ近くにあることから始めていくことが肝要であると私は考えています。
こうした心がけは、悟りへの階梯のなかでは、ほんの小さな芥子粒ほどの一歩なのかもしれません。
いや、進んでいるとも言えないほどのことなのかもしれません。
しかし、それは日常生活における、今、この瞬間に実践可能で、かつ確実な一歩です。
そうすることで、今、自分は何を考えていて、何をしつつあるのかということがわかるようになります。
また、より注意深く自己をとらえていくことで、ついうっかりとすることも少なくなることでしょう。
そして、ある時、ふと振り返ってみた時、少しだけ成長している自分に気がつくことでしょう。
私は、仏教の考え方やものごとの見方を基として、あるいは瞑想をきっかけとすることで、人生を善き方向へと導くことができると思っています。
しかし、それは決して劇的な変化や特別な力を期待するものではありません。
私はタイで3年間出家しました。
結局は、何も得られず、元の木阿弥となってしまいました。
劇的な変化や大きな変化など、私には一切起こりませんでした。
高い境地も特別な力も何もありません。
嗚呼・・・!
私の3年間は一体何だったのでしょうか!!
何も得られませんでした。
ただ、タイへ行ってきたのだという記憶が残っているのみです。
もし、得られたものがあったとするならば・・・
それは、ここで書いてきたことです。
「大切なのは、常に自己の行動そのものに対して意識的になって、気づきの心を身につけていくこと」だと気づいたことでしょうか。
すなわち「気づき」です。
今さらながらに、学びを得ました。
(『劇的な変化を求めてはいけない』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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