新・タイ佛教修学記

タイの小僧さんたちとともに

2020年4月19日

 

タイでは、未成年の見習いのお坊さんのことを「サーマネーン」と呼びます。

 

日本語では、沙弥(しゃみ)と言います。

 

 

私は、まず、見習いのお坊さんであるサーマネーンとして出家させていただきました。

 

サーマネーンとして、日々を過ごしていく中で、ある自分の姿に気づきました。

 

いや、気づかされたというか、見せつけられたのです。

 

 

サーマネーンは出家者とは言え、比丘に対しては、常に一段へりくだらないといけない存在で、いつも礼拝で接しなければなりません。

 

また、比丘とは席をともにすることができません。

 

普通であれば、成年者はサーマネーンを経ずに出家することができます。

 

しかし、私はできませんでした。

 

どうして、私は比丘として出家することができなかったのかと、そうした思いが私の頭の中に何度も何度もよぎりました。

 

比丘として出家をするためにタイまで来たのではなかったのかと。

 

悔しさと怒りがこみ上げてきました。

 

出家が上手くいかなかったことを恨む気持ちもありました。

 

 

しかし、身にまとう法衣の力なのでしょうか・・・。

 

 

比丘に対して礼拝しなければならないことは、自分自身に対して礼拝もらいたいということなのだろうか?

 

いつしか「比丘として出家すること」だけが目的になってしまってはいないだろうか?

 

 

私が身にまとっている法衣は、そのように自分自身を見つめさせてくれました。

 

悔しさと怒りと恨みの気持ちの向こう側にあるものを見せてくれたのでした。

 

 

よくよく自己を振り返ってみると、学びに来たのは「仏教」であり、「瞑想」です。

 

そして、仏教の生き方そのものです。

 

 

見せつけられた自己の姿とは、紛れもない傲慢(ごうまん)な姿であり、怒りの姿でしかありませんでした。

 

 

自己の傲慢な気持ちを満たすためにタイへ来たのではありません。

 

むしろ、その心の塵を取り去っていき、無くしていこうとする生き方を学ぶためにタイまで来たのです。

 

心おだやかな生き方を求めて、はるばる海を越えてタイまで来たのです。

 

 

そのように内観をしていると・・・少しずつ、悔しさと怒りと恨みの気持ちは、小さくなっていきました。

 

 

 

 

タイのお寺には、多くのサーマネーンたちがいます。

 

そして、お寺で出家生活をおくりながら、日々学んでいます。

 

 

私も、縁あってサーマネーンとなりました。

 

そして、タイのサーマネーンたちとともに、私の出家の一時期を過ごすことができました。

 

 

多くのサーマネーンたちは、日本でいえば、だいたい小学生の高学年から中学生・高校生の年齢です。

 

サーマネーンたちとともにお寺で寝泊まりをして、一緒に遊んだり、食事をとったりしました。

 

サーマネーンたちは、ほんとうに楽しそうです。

 

そして、本当に明るいです。

 

たくさんの笑顔があります。

 

 

私があるサーマネーンに、

 

「家族と離れてさみしくないのかい?」

 

とたずねたことがありました。

 

すると、そのサーマネーンは、

 

「もちろん家族が恋しいに決まってる!」

 

と答えてくれました。

 

それも当然のことだと思います。

 

日本いえば、彼は小学生か中学生くらいです。

 

サーマネーンとして出家をしたからには、家族と離れてお寺で過ごさなければなりませんから。

 

 

しかし、そのあとすぐに、

 

「でも、みんなと一緒だから平気だよ!」

 

「毎日、楽しいよ。」

 

と笑顔で答えてくれました。

 

 

夜・・・

 

テレビが置いてある部屋にサーマネーンたちが群がっていました。

 

(このお寺は、修行寺ではありませんので、お寺にもテレビがあります。)

 

そのなかには、昼間は厳しく教鞭をとっていた比丘である先生も一緒になってテレビを見ていました。

 

先生も生徒も、同じ輪の中に入って、一緒にテレビを見て笑っているんです。

 

とてもあたたかな風景に見えました。

 

 

珍しい外国人サーマネーンである私に将来の夢を語ってくれたサーマネーンもいました。

 

頑張って英語を勉強して、外国へ行きたいのだと語ってくれました。

 

タイで海外を夢見る者はとても多いです。

 

日本へ行きたいと言ってくる子どもたちもとても多いです。

 

そんなサーマネーンたちとの生活は、どこか童心に返るような思いにさせられました。

 

私にとっては、あたたかな風景であったのと同時に、自己の心の内面を反省させてもくれました。

 

 

それもご縁でした。

 

 

自分の中にうごめく汚い心を見せつけられました。

 

私の機根を育ててくれたに違いありません。

 

それもまたご縁でした。

 

いや、ご縁と言うよりも、必然だったのでしょう。

 

仏教では、偶然というものはありません。

 

全てが必然です。

 

そのような道を歩むべくして、歩んだに違いありません。

 

 

私は、タイへ入国してすぐに比丘として出家できるはずでした。

 

比丘として出家するためにタイへ来たはずでした。

 

しかし、サーマネーンとして出家することになりました。

 

 

それもご縁でした。

 

 

(『サーマネーン達とともに』)

 

 

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