新・タイ佛教修学記

仏教の世界への幻滅

2020年3月11日

 

高校への進学は、仏教系の高校へと決めていました。

ところが、私の住む地域には仏教系の高校がありません。

 

キリスト教系の高校は、近隣にたくさんあるのですが・・・。

 

 

仏教系の高校への進学が難しかったので、大学こそは仏教系の大学へと進学しようと固く心に決めて、いつしか仏教を学ぶことを志すようになっていました。

 

無事に某大学の仏教学科へ入学することができました。

 

書籍からしか学ぶことがでなかった今までとは違って、大学での仏教の講義はとても新鮮でした。

 

ところが、大学で大変大きなショックと出会うことになりました。

 

 

仏教系の大学の仏教学科というのは、多くの学生はお寺のあと継ぎで、住職の「資格」を取るために学びに来ます。

 

つまり、“家業”を継ぐために「仕方なく」学びに来るのであって、真剣に仏教を学びたいと志して入学してくるような学生はまずいません。

 

この事実には愕然としました。

 

大学時代に友人と仏教についての議論をした経験はほとんどありません。

 

仏教の教理について興味をもっている学生なんていないからです。

 

 

ある時、私にこのようなことを言ったお寺の息子がいました。

 

 

「お前はいい。

なんでも自由に道を選べる。

俺は、ただ敷かれたレールの上を歩くだけなんだ。」

 

 

思えば、彼らも気の毒なのかもしれません・・・。

 

将来は、お寺の住職という地位を約束されています。

 

しかし、それは逆に言えば、住職という「職業」しか選ぶことができないということでもあります。

 

嫌でも住職をやらなければならない・・・それが彼らお寺の息子達の立場です。

 

 

あるいは、こんなことを言ったお寺の息子もいました。

 

 

「俺にとっては、実家(お寺)がうまく経営できればそれでいい。

お前が言うように、人の生き方がどうのとか、人の幸せがどうのとか、仏教の教学が云々なんていうことはどうだっていいんだ。

俺は、住職の資格を取って、実家に帰ることができればそれでいいんだ。」

 

 

おそらくこれが彼らの本音なのだろうと思います。

 

この言葉には、正直言って、とても大きなショックを受けました。

 

次の世代の仏教を担うであろう住職のたまご達が発したこの言葉・・・彼らの本音に触れた瞬間でもありました。

 

 

彼らお寺の息子達にとって、大学の4年間というのは、卒業後に待っているお寺の「住職」という枠組みの中へと入れられてしまうまでのモラトリアムなのかもしれない・・・そのように感じました。

 

かなり贅沢な、そして派手な学生生活を送っているお寺の息子達も多かったです。

 

 

仏教の勉強をするために檀家さん達に大学へと送り出してもらったのではないか・・・一生懸命に仏教の勉強に励んでいると信じている檀家さん達の気持ちを思うと、大変心が痛みました。

 

 

しかし、これは勝手な私の思いです。

 

彼らの側からしたら、やりたくもないことを強制されているに過ぎません。

 

それは、卒業後に待っているやりたくもない「仕事」へのささやかな抵抗なのかもしれません・・・。

 

 

私は、田舎から出てきた身です。

 

かつて、玄奘三蔵がインドへ仏法を求めた時の姿と、私が大学で仏教を学ぶ姿とを重ね合わせていました。

 

ところが、その大学で待っていたのがこうした現実でした。

 

大学の母体である宗派では、最高学府と位置付けている大学です。

 

また、仏教学では名をはせている大学でもあります。

 

それだけにショックは、実に大きなものがありました。

 

仏教は、お寺の経営学ではありません。

 

僧侶は、職業ではありません。

 

 

仏教とは、生き方です。

 

仏教とは、世の中の法則であり、真理です。

 

 

 

 

ある大寺院の僧侶である先輩と出会いました。

 

「飯だけは面倒をみてやるから、寺へ手伝いに来い!」

 

と、なかば強引に誘われて、住み込みで先輩のお寺の作務を手伝うようになりました。

 

伝統的な仏教行事。

 

落ち着いた雰囲気の重要文化財の建物群。

 

あたたかな眼差しで見守ってくれる歴史を重ねた仏像達。

 

 

たくさんのことを学ばせていただきました。

 

楽しかったし、充実もしていました。

 

仏教の教理に関する話題も少なからずできました。

 

しかし、それは「仏教を生きる」ということではなかったようです。

 

 

先輩のお寺で見た姿は、仏教の殻をかぶった単なる「業務」でした。

 

 

お寺の運営と経営・・・つまり「お金」です。

 

運営や経営を否定するわけではありません。

 

とても大切なことであるのは言うまでもありませんが、私が言いたいことは、そのお寺に仏教を生きている人の姿を誰一人として見い出すことができかったということです。

 

お寺の運営や経営の問題は、仏教があってこそなのではないでしょうか。

 

歴史ある大寺院であっても、すでに仏教はなく、ただ「業務」をこなしている姿しかありませんでした。

 

 

このように表現すると、お叱りを受けることになるのかもしれませんが・・・

 

 

しかし、少なくとも当時の私の目にはそのように映りました。

 

 

やがて、大学卒業を迎えました。

 

残念ながら、心からひきつけられる人との出会いはなく、卒業と同時に先輩のお寺を後にすることにしました。

 

確たる人生の答えを得られないまま・・・。

 

 

 

大学を卒業すれば、仏教のかけらくらいは理解ができるだろうと漠然と考えていましたが、全く仏教を理解できていないことに気がつきました。

 

理解どころか、さらに深い苦悩の中へと沈んでいる自分がいました。

 

仏教とは、悩み苦しみを越える道ではなかったのでしょうか?

 

 

仏教を学んでも全く変わっていない私の姿に、またもや大きなショックを受けたのでした。

 

 

4年間仏教を学んできたきた意味は、一体何だったのでしょうか?

 

 

日本の仏教の世界に対するショック・・・

 

さらに自分自身が苦悩する姿を容赦なく見せつけられたことへのショック・・・

 

 

この2つの大きなショックをかかえたまま大学を卒業したのでした。

 

 

(『仏教の世界への幻滅』)

 

 

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