【不浄観】
身の不浄を観じて貪心を治する。
自身の不浄を観ずる、他身の不浄を観ずるの2種がある。
(宇井伯壽・『佛教辞典』より抜粋・一部編集)
不浄観とは、タイでは、現在でも仏教の修行法のひとつとして位置づけられていて、実際に修されています。
誰もにやってくる『死』というものを直視する、もっとも直接的な方法なのではないでしょうか。
自分自身の身体、あるいは他人の身体への執着を離れて、人間の本当の“姿”を知ることを目指して、さらにはゆるぎない悟りの境地へと導こうとする、極めて具体的な、かつ即物的な方法です。
学生の頃から「不浄観」という修行法、つまり死体を眺めるような瞑想法があるらしいことは知っていました。
不浄観とは、わかりやすく表現するとしたら、死体を眺めながら、丁寧に観察していく修行法のことです。
経典の中には、墓場で寝起きをしたり、墓場で瞑想を勧めるといった記述もあり、古くから実践されてきた正統な仏教の修行法のひとつです。
しかし、昔のインドでは、そんな修行法もあったのだろうな程度が私の理解でした。
その不浄観が現在でも実際に行われていると知った時は、本当に驚きました。
現代の日本の社会では、そのような修行法などは、まさに「狂気」とも言える、全く常人の理解を越えた範疇に属するものなのではないでしょうか。
「死」そのものを忌避しようとする現代の日本。
日本で「死」とは、忌み嫌われるべきもので、日常生活からは、できるだけ遠ざけるべきものとして理解されている側面があります。
しかし、「死」とは、この世に生を受けたものすべてに、“必ず”やって来るものであり、決して避けては通れないことです。
「生」を受けたその瞬間から「死」は決定しています。
人間は、みんな死亡率100%です。
人生の中で唯一確実なもの、それが「死」です。
「不浄観」が現在でも行われていると知ったのは、上座仏教を特集したある書物との出会いでした。
タイの森の修行寺についてレポートされた記事の中で、タイの不浄観についての記述がありました。
「今でも本当に不浄観が実践されている???」
というのが率直な感想でした。
私は、大学時代に“文献”として読んで以来、記憶の片隅に埋もれていた不浄観というものに、とても興味を持ちました。
幸運にもタイでの出家中に仏教の出家者として「不浄観」を修することができました。
不浄観への興味の第一は、やはり「性」の問題への対処です。
男性である私にとって、女性への執着は、とても深く根深いものがあります。
いくらきれいで容姿端麗な女性であっても、一皮剥げば同じではありませんか。
ある意味、とても短絡的ではありますが、そのような執着から少しでも離れることができるのではないかと考えたのです。
そして、もう一つは、わが身もまたそのようになる(私も死ぬ、死体となる)という恐怖への対処です。
「死」は、他人事なのではなく、間違いなく、確実にこの私の身にもやってくる大問題です。
今、生きている私の身体も、命尽きれば、やがては死体となり、朽ち果てて、骨となってしまいます。
「死」という漠然とした不安、何が起こって、どのようになってしまうのかがわからない「死」。
そのような不安から開放されたいという思いもありました。
バンコク市内のとある大きな病院の一室へ通されました。
その部屋の中には、死体が数体並べられていました。
部屋の外には、おそらく数日を経ているであろう腐りかけた死体もありました。
見るに耐えない姿です・・・ハエがたかっている死体も置かれています。
すべて医学解剖のためのものだそうです。
日本では、おそらく医師か医師を目指す学生くらいしか目にすることが許されない場所でしょう。
そのような場所へ仏教の僧侶が「不浄観」という修行を実践するために、立ち入ることを許されるのですから、仏教を尊ぶタイの姿勢が窺えます。
ある死体の前へと通されました。
聞けば、昨日まで生きていたそうです。
おそらく、何時間か前までは普通に働いていたり、歩いたり、誰かと話をしていたであろう彼。
まるで眠っているかのようにも思えます。
しかし、それはもう「人」ではなくて、死体というただの「物」です。
淡々と内臓を取り出していく病院の職員さん。
臓器を取り出して見せてくれたり、胃袋を切って中身を出してくれたりもしました。
私のお腹の中にも、すぐそこに横たわっている彼と同じ「物」が入っていて、やがて命尽きれば、彼と同じ死体という「物」と化す・・・
そんなわが身です。
一緒に行ったタイ人比丘の一人は、顔をしかめていました。
また別の比丘は、「マスクをしていては、匂いがかげなくなる」と言って、あえてマスクをせずに死体の近くまで行って、まじまじとお腹の切り裂かれた死体を見つめていました。
同行したタイ人比丘たちと何を話したのかはよく覚えていません。
おそらく、他のみんなもそれぞれのものを感じたことだと思います。
ただ覚えているのは、お寺へと帰った時に、
「どうだったかい?恐かったかい?」
と、数人から質問された。
「大丈夫だよ!」
と答えたことだけです。
「人間はただの糞袋」という表現を何かの本で読んだことがありますが、まさにその通りです。
容姿という袋の中に、内臓やらゲロやら糞やらを詰め込んだものが人間です。
男も女も同じです。
・・・さて、愛欲は立ち切れたでしょうか?
「死」を恐れることはなくなったでしょうか?
「死」は他人ごとではなくなったでしょうか?
『元の木阿弥』です。
還俗して、日本で出家前と同じくごく普通の生活をしている今。
きれいな女性を見れば、抱きたいと思えば、死も恐い。
見えない「死」というものへの漠然とした不安もあります。
今、生きているのは確かであり、死にゆく存在であることも確かです。
その自覚から、これからが始まるのではないでしょうか。
本当の意味で「死」を理解し、腑に落とし込むというのは、なかなか難しいことです。
やっぱり、どこかで他人事に思っているんです。
それほどまでに煩悩は根深いということの証でしょう。
わが身もまた遠からず・・・
タイのお葬式で必ず唱えられるパーリ語の偈文があります。
『アニッチャー ワダ サンカーラー ウパータワヤタンミノー
ウッパチッタワー ニルッチャンディ デーサン ウーパーサモー スコー』
『もろもろの作られたものは実に無常であり、生滅するものである。
生じては滅びる、それらの静まるところに、安らぎがある。』
(『死を直視する修行』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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