新・タイ佛教修学記

お寺に飾られた死体の写真

 

タイの瞑想センターや森のお寺・修行寺などでは、よく死体の写真が飾ってあるのを見かけることがあります。

 

 

腐りかけた死体の写真。

 

血まみれの死体の写真

 

腹部を開いた死体の写真・・・

 

 

これらは、一体、何のために飾られた写真なのでしょうか?

 

日本では、全くあり得ない光景です。

 

もし、日本でこのような写真を飾っていようものなら、それはまぎれもなく「狂気」です。

 

しかし、タイでは“狂気”なのではなくて、「不浄観」(死隨念)という瞑想修行のひとつとして、このような写真が飾られています。

 

 

バンコクにある仏教書籍の専門店にも不浄観のための写真集(といっても小冊子ですが)が売られています。

 

その写真集の内容はといえば・・・

 

 

体が開かれて内臓が見えている写真。

 

内臓が取り出されている写真。

 

皮が剥がされている写真。

 

死体が火葬されている写真。

 

骸骨となっている写真。

 

 

いかにも気持ちが悪い写真ばかりですが、この写真集では、生きている者が死に至り、骨となっていくさまを視覚化して、見せてくれています。

 

そして、写真とともに仏教に関連した言葉を織り交ぜた解説が添えられています。

 

 

「人生とは何か?」

 

「何をするために生まれてきたの?」

 

「阿羅漢となった者は、痛みを痛みとしてとらえない。
ゆえに痛みを感じない。」

 

「阿羅漢となった者は、快楽を快楽としてとらえない。
ゆえに快楽を感じない。」

 

 

このような言葉が添えられています。

 

こうした写真集が仏道修行のためのものとして、仏教書籍の専門店に売られているのです。

 

 

お寺にもこれらと類似した写真が飾ってあるということは、このような人間の生き様や人間の姿をしっかりと心に留め、わが身や人間そのものを客観的に観察して、わが身もまた写真のようになる身であり、その写真となんら変わることのない身である、ということを忘れないようにするために、常日頃から敢えて目に見える形で示されているのです。

 

 

私が自身の瞑想修行の体験のなかで、一番辛かったことのひとつに「性的な高まり」があります。

 

出家生活の中では、何度も性的な高まりと、それを抑える苦痛に出会いました。

 

修行生活の中で出会う、そのような時のためにも、よく見える場所に、このような写真が飾ってあるのでしょう。

 

しかし、実際には、暴れ回る心は、そうそう簡単におさまるものではありません。

 

心は、自分が思っている通りにはいかないものなのです。

 

まるで、暴流の如く、荒れ狂う濁流のよう・・・それが私の心の姿です。

 

 

そんな腐りかけた死体に対してでも妄想が浮かび、抱きたいと感じた瞬間さえあります。

 

性的快楽を得たいと思う欲望と、それを抑えて消し去ろうとするができない苦しみ。

 

ただただ耐えるしかありませんでした。

 

 

のちに、ある師から言われたことがあります。

 

 

「それは、まだまだ自分自身への観察とその死体への観察が足りなかったんだ。」

 

 

大切なのは、そのように感じたことは、ただ単に感じたこととして受け止めることです。

 

そのような感情に巻き込まれて、さらにその感情を増幅させてしまわないことです。

 

そして、単なる妄想として、その場で手放してしまうことです。

 

 

なかなか容易にできることではありません。

 

しかし、日々のトレーニングを積み重ねていくことにこそ意義があります。

 

 

お寺のお堂の中・・・ひときわよく見える場所に飾られた死体の写真は、人間の生き様と自分の人生を、そしてやがては死にゆく存在としてのありのままの人間の姿と、自分の中に蠢く煩悩との対面を、『死』というものを直視することで教えてくれているのかもしれません。

 

 

(『お寺に飾られた死体の写真』)

 

 

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