新・タイ佛教修学記

激しい修行を実践すれば、きっと・・・

 

激しい修行をすれば、きっと何かが得られるに違いない。

 

どうしても、このような思いを抱いてしまいがちなのですが、実は、そうではないと断言させていただきます。

 

 

極端な修行方法を実践して、私が学んだことがあるとすれば、たったひとつのことしかありません。

 

 

それは、どのような状況下に置かれたとしても煩悩は、少しも減りはしないし、無くなりもしないということです。

 

 

断食をして、空腹の最中にあったとしても、眠気は容赦なく襲い掛かってきます。

 

空腹ならば、余計なことを考える余裕など無くなってしまうだろうと考えたのですが、自分好みの美しい女性が目に入れば、視線はいとも簡単に女性のほうへと向かってしまいます。

 

性欲は無くなるどころか、むしろさらに激しく湧き上がってくるばかりでした。

 

 

空腹で、生きるか死ぬかのギリギリの状態にまで追い込まれたとしても、女性への興味は全く無くなりませんでした。

 

 

無くならないのは、女性に対する欲望だけではありません。

 

どんな欲望も、決して無くなりはしませんでした。

 

普段の生活と何ひとつ変わりませんでした。

 

 

眠らずに瞑想を実践する修行も同様です。

 

眠らない修行をして、性欲を無くせるかと言えば、これもまた全くの見当違いでした。

 

どんなに眠たくても、きちんとお腹も空いてこれば、激しい怒りだって湧き上がってきました。

 

しっかりと性欲だってありました。

 

 

どんなに厳しくても、どんなに激しくて、極端な修行を実践したとしても、内面がガラリと変わるわけではないということがよくわかりました。

 

 

煩悩が無くなるわけでもありませんし、減るわけでもありません。

 

まして、悟りに近づけるわけでもありません。

 

腹も立てば、怒りもする。

 

 

もしも、変わるところがあるとするならば、修行を実践したということ自体への達成感が得られるか、ある一定程度の精神力が鍛えられるか・・・そのくらいのことなのではないかと思います。

 

 

それは、瞑想が目指すところではありません。

 

 

厳しくて、極端な修行とは・・・私の場合は、自分が納得するか、納得しないのかの問題ただ一点のみだったのではないかと思っています。

 

 

瞑想とは、地道にこつこつと続けていくというところに行き着くのではないかと思います。

 

徹底して「観察」していくしかありません。

 

どのようなことも「観る」、ただただ「観る」のみ。

 

 

必要以上の食事や必要以上の睡眠は、言うまでもなく単なる欲であり、怠け心です。

 

適度に食物を摂り、適度に睡眠を摂る。

 

必要最低限度でありつつも、適度な生活こそが、病むことなく、苦しむことなく、最良の状態で、修行生活を長期的に継続していくことを可能にするものなのだということを肌で感じることができました。

 

 

断食も、眠らない修行も、私の取り組み方が中途半端だったという反省はあるのかもしれません。

 

また、それらを実践するには、まだ私の器が整っておらず、成長していなかったということも言えるのかもしれません。

 

もしかすると、もっと徹底してサティをしていけば、結果はもっと違っていたのかもしれません。

 

しかし、私にはこれが限界でした。

 

断食にしても、眠らない修行にしても、やればやるほどに頭がおかしくなってしまいそうな瞬間すらありました。

 

発狂寸前の状態にまで陥ったこともありました。

 

 

大切な修行の機会を単なる我慢くらべ、あるいは単なる自己満足や達成感を享受するだけとしてしまってはいけません。

 

もし、そうだったとしたら、その時・・・文字通りの単なる「苦行」に堕してしまうのだと思います。

 

 

これらの修行をひと通り終えた時、何も得られず、全く前進していない私の姿に愕然とし、総崩れとなってしまいました。

 

しかし、この結果が私としての限界であり、最善の実践であったのですから、後悔することは何もありません。

 

 

(『激しい修行を実践すれば、きっと・・・』)

 

 

 

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