新・タイ佛教修学記

起きた出来事を判断しない

2020年8月31日

 

人は、誰でも自分の価値観を通してものごとを見ています。

 

理解の違いや意見の違いは、そうした各個人の価値観の相違から発生します。

 

ですから、ある人にとっては、腹を抱えるほど面白い出来事であったとしても、またある人にとっては、何が面白いのか全くわからないような出来事だったということが、ごく普通に起こり得るわけです。

 

 

このような客観的事実を踏まえたうえで、起こった出来事にできるだけ色付けをせずに、ただ事実を事実としてだけ見るように心がけていくと、より客観的な視点からものごとをとらえることができるようになり、感情的な見方から離れることができるようになります。

 

そして、より心おだやかに過ごすことができるようになります。

 

 

事実を事実としてだけ見た場合、それは「私」の勝手な価値判断であり、「私」の勝手な感じ方であるということがわかるかと思います。

 

 

快でもなく、不快でもありません。

 

悲しい感情を感じたのならば、ただ悲しいと感じている自分があるのみです。

 

腹立たしさを感じたのであれば、ただ腹立たしく感じている自分があるのみです。

 

 

そこに良い・悪いの価値はないはずです。

 

 

快・不快、好ましい・好ましくないといったことは、勝手な自分の判断、勝手な自分の基準によって色付けをしているにしか過ぎません。

 

単なるただの出来事でしかありません。

 

 

その出来事をどのような出来事として見るのか・・・それは、自分がその出来事に対してどのような色付けをして、どのような飾りつけをするのかにかかっています。

 

 

本来は、単なる出来事であり、単なる事実でしかないはずです。

 

 

それならば、わざわざ自分を苦しめたり、不快になったりするような見方や判断、脚色をする必要などありません。

 

心静かな時間を持つことで、こうした「事実」に気づかせてもらえるばかりでなく、こうした見方ができるような心を育ててくれます。

 

 

冒頭で触れましたが、人は自分の価値観を通して生きています。

 

ですから、全く価値観を抜きにして、事実を事実としてだけ見て生きるということは、非常に困難なことです。

 

しかし、この見方が瞑想であり、こうした見方を育てていくのが瞑想です。

 

このような見方を少しでも養い、少しでも知るだけでも、見方は大きく変わってきます。

 

また、少しでもこうした「見方」を心がけていくことで、必要のないイライラや余分な悩み事を確実に解消することができます。

 

 

そのような在り方を知り、そのような姿勢を心がける。

 

ここが大切なポイントなのではないかと思います。

 

 

わざわざ自分を苦しめるような見方をする必要はありません。

 

 

(『起きた出来事を判断しない』)

 

 

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