おだやかな森の修行寺での生活。
自然のなかでの瞑想の日々。
ところが、心の中は、徐々におだやかではなくなっていきました。
このままタイで出家生活を続けていてもよいものなのだろうか・・・。
そんな疑問にかられたのでした。
タイへ旅立つ前から抱える心の葛藤。
もちろん、けじめをつけてきました。
しかし、どうやらけじめをつけてきた“つもり”になっていただけのようでした。
そのような「心」がついに暴れ始めたのです。
まるで荒れ狂う濁流の如く。
私の出家は、私にはわからないだけで、もしかしたら両親にとっては、広大な功徳になっているのかもしれません。
しかし、私は、とてつもなく親不孝なことをしているのではないかと感じたのです。
今、私がやっていることは、人生のうえで大きなしこりを残そうとしているのではないだろうかと・・・。
そのような時に、ある日本人から言われた言葉です。
「あなたの思いはとても理解できます。
しかし、身の回りのことはしっかりと整理をしてきたほうがいいです。
お父様のこともしかりです。
このまま出家生活を続けたとしても、あなた自身のことですから、それはそれで全く構いませんが、この先、一生背負うことになると思います。」
この言葉に私は心を動かされました。
そして、次に、歩むべき道を示されたように感じたのです。
まずは両親の気持ちと、自分が今、為すべきことを為すことこそを大切にすべきなのではないかという考えに至ったのでした。
新たに悪い「業」を作ってはならない。
その「業」が次にさらなる「業」を生み出してしまう。
そのように考えました。
しかし・・・
夢にまで見たタイ。
苦労の末に、やっとの思いで実現できた比丘としての出家生活。
そして、森のお寺でのおだやかな生活と瞑想の日々。
簡単に決められるはずがありません。
私は、病気の父を置いてタイへと旅立ちました。
そして、タイのお寺で出家をしました。
「長期間になるかもしれない。場合によっては戻らないかもしれないから。」
「迷惑をかけることになるけれども、後のことはよろしくお願いします。」
そのように告げて、タイへと旅立ちました。
自分の中では、しっかりと区切りをつけたうえでタイへと旅立ってきたつもりでした。
しかし、そうではありませんでした。
私の中に心の“しこり”が残っていたのです。
その心の“しこり”が時間をかけて、少しずつ、少しずつ、大きくなってきたのでした。
ついに、その“しこり”が暴れ始めたのでした。
今までを振り返ってみると、心の“しこり”というその歪みは、実は、気づいていなかっただけで、あらゆる場面において、すでに噴き出していました。
なんらかの「力」が加わっているという感覚。
それが一体何なのかもわからない。
進もうとしても進めない。
何かに邪魔をされている。
いや、邪魔をされているのではありません。
自分の業がそうさせているのかもしれません。
自然の流れに逆らっているからかもしれません。
真理に従っていれば、困ったことなど何も起こらないはず。
真理は曲げられません。
従うしかありません。
そこを無理に曲げようとしていたから、進まなかったのかもしれません。
それが邪魔をされているように感じさせていたのかもしれません。
どこまでも凡夫である私には、真理が何なのか、何が業なのかなど、決してわかるはずのないことです。
これもまた私の勝手な感情に過ぎないのかもしれません。
しかし、これだけは言えます。
今の私が明日の私となる。
ひとつひとつ“しこり”が残らないように進んで行かなければなりません。
それらが善き流れとなり、自然な“私”の流れとなって、私の人生となっていくということです。
自然な流れの中で、なんの抵抗もなく進んだその瞬間に、そのように感じました。
還俗して日本へ帰るべきだ。
日本へ帰ろう・・・
これが凡夫である私が悩んだ末に思い至った最終的な答えでした。
(『還俗という二文字』)
※アイキャッチ画像は、
『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より。
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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