新・タイ佛教修学記

反省はしても後悔はしない

2020年5月21日

 

後悔していることのひとつやふたつ・・・ありはしまんせんか?

 

人間、生きていれば、誰でもそのような経験があるというものです。

 

 

もちろん、私も例外ではありません。

 

 

私は、このようにしてブログに書いてきたおかげで、自己を振り返る機会をいただき、前へと進むきっかけを得ることができたように思っています。

 

 

ブログを通じて、再び仏教書や瞑想関連の書籍を読む機会が少しずつ増えてきました。

 

さらには、大学時代の仏教の講義ノートを引っ張り出してきて、読み返したりもしています。

 

 

なぜ、あの時、もっともっと学んでおかなかったのだろう・・・

 

 

そのように思いながら、もう何年も開けていなかった講義ノートを開いていました。

 

何年もというよりも、講義以来一度も開いていません。

 

あの大学の講義室で受けた、あの講義、あの教授の声が甦ってくるようです。

 

 

やはり私は、仏教や瞑想のことを考えている時間や、このようにして仏教や瞑想の話題について書いている時間がとても好きなのです。

 

 

「私」という人間について記事に書いていくことで、私にとって何が一番大切で、何が一番好きなのかということがはっきりと確認できたように思います。

 

 

・・・情けないことに、日常生活の中で、そのようなことすらもわからなくなっていました。

 

 

時には、激しく後悔の念が湧き上がってくることもあります。

 

 

学問が本業であった大学時代に、なぜもっと学んでおかなかったのだろうか・・・。

 

自分のことをブログに書き出していくことで、全くできていない私の姿が明らかになってくるのです。

 

 

もうひとつ深い後悔の念が湧き上がってきました。

 

それは、タイでの瞑想修行のこと。

 

 

・・・結果として、何も得られなかったということです。

 

 

いや、得られなかったというわけではありません。

 

大切なのは、「常に自己の行動そのものに対して意識的になり、今に気づく心を身につけること」だということに気づくことができました。

 

 

ところが、やはり心のどこかでは、私の努力がまだまだ足りなかったのではないか・・・やり方次第では、もっともっと何かが得られたのではないか、と思うことがよくあります。

 

 

もっとタイで学ぶための準備を整えておくべきでした。

 

もっとタイ語や英語を学んでおくべきでした。

 

もっともっと限界を超えるまで瞑想に励むべきでした。

 

 

このように思うことがあります。

 

 

その時は、精一杯の選択をして、精一杯の努力をして、最善を尽くしてきたにもかかわらず、です。

 

 

なぜなら、常に全力疾走していたわけではありません。

 

あの時もっとこうしておけば・・・と思うことばかりです。

 

時間を無駄に使ってしまった・・・と後悔することばかりです。

 

 

自己を振り返るということは、そういうものなのかもしれません。

 

 

この自問自答の過程でも、大切な学びがありました。

 

それは、こうした後悔の念は、単なる過去への囚われにしか過ぎないということです。

 

「後悔」という感情の正体は、「過去」という私の「感情」の中だけで、ただひたすら遊んでいるに過ぎないことです。

 

そうした感情の中にどっぷりと浸かってしまっている状態なのです。

 

 

まさに、今に気づく心を忘れた姿で、過去でもなく、未来でもなく、今の自己に気づいていかなければなりません。

 

 

 

私は、挫折しました。

 

あまりにも遠い道のりに挫折しました。

 

 

それは、ヒマラヤの山々よりも高く積まれた数え切れないほどの芥子粒の山を、一粒一粒、数えていく作業に喩えられるでしょうか。

 

山となっている芥子粒は、地道にただひたすら数え続けていくならば、いつかは尽きます。

 

これと同じく、瞑想とは、あまりに堅実で、あまりに確実な方法です。

 

しかし、私は、そのあまりにも真面目で、あまりにも堅過ぎるさまに圧倒されてしまったのです。

 

 

私には無理だ・・・そのように感じたのです。

 

 

日本へ帰国した後は、さらなる苦悩の日々を送ることとなりました。

 

 

『絵に描いた餅』

 

 

私には、実現不可能な経典の中でだけで示されたおだやかなる悟りの世界。

 

それでは、私にとって瞑想なんて意味がないではありませんか。

 

私の目の前に立ちはだかる苦しみの前で、瞑想は何の意味も果たしてくれません。

 

 

瞑想は、社会で生きる「私」に、一体どのような利益をもたらしてくれるのでしょうか?

 

日本の生活との落差に押しつぶされました。

 

 

一度は、瞑想を投げ捨てました。

 

・・・しかし、果たして、本当に瞑想は、私にとって意味のないものでしょうか?

 

 

『それは違う』

 

 

これが、再び私が辿り着いた答えでした。

 

 

私には悟れない。

 

しかし、だからと言って何もしなくてもいいというわけではありません。

 

たとえ、ほんの少しであっても前へ進むべきではないでしょうか。

 

たとえ、芥子粒ひとつであっても前へ進むべきではないでしょうか。

 

今の生活を少しでも善き方向へと進めていくべきではないでしょうか。

 

 

私にできることを実践したらいいのです。

 

 

今までに善く生きていく方法をたくさん学んできたではありませんか。

 

今こそそれらを実践すべき時ではありませんか。

 

 

学問が本業であった大学時代にもっと学んでおけばよかった・・・。

 

タイへはもっと準備を整えてから出発をすればよかった・・・。

 

タイでの瞑想実践を、もっともっと懸命に励んでおくべきだった・・・。

 

 

このような後悔はたくさんあります。

 

数え切れません。

 

ところが、そのように思ってみたところで進展することは何もありません。

 

 

反省することはよいことです。

 

次に踏み出す一歩へ活かすことができます。

 

しかし、反省することと後悔することとは違います。

 

後悔は、するべきではありません。

 

善き心を生まないからです。

 

過去に囚われることは、過去に執着することに他なりません。

 

今できる最善のことを実践する。

 

今できる最高の実践に努める。

 

そこに瞑想の学びがあり、仏教の生き方があります。

 

 

反省は、これからの自己の行動の指針となり得るものですが、後悔をして過去にとらわれることは、沈んだ心を生み、愚かな心を育ててしまうことになります。

 

 

『反省はしても後悔はしない』

 

 

こうも言えるのでないかと思います。

 

 

『後悔しない最善の選択をして進め』

 

 

これこそがタイでの学びであり、瞑想からの学びです。

 

そして、仏教的な人生の歩み方です。

 

 

これこそが、自己を善き方向へと向けていく後悔しない、明るい生き方だと私は確信しています。

 

 

(『反省はしても後悔はしない』)

 

 

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