新・タイ佛教修学記

見ようとすること

 

「タイでの出家で何が変わったのですか?」

 

「3年も出家をしていて、成果は何もなかったのですか?」

 

 

よくこのように問いかけられます。

 

・・・残念ながら、大きく変わったことは何もありません。

 

高い境地に至ったわけでもなければ、一定の成果を得たわけでもありません。

 

まして、特別な力が備わったわけでもありません。

 

 

何も変わっていない。

 

身体が変わったわけでもない。

 

心が変わったわけでもない。

 

 

タイで出家して、瞑想に励んでは来たけれども、結局は元通り・・・もとの木阿弥です。

 

しかし、最近になって、ひとつだけ気づいたことがあります。

 

 

それは・・・

 

 

もし、変わったことがあるとすれば、それはものごとの「見方や捉え方が変わった」ということかもしれません。

 

すなわち「気づき」です。

 

私の瞑想上の気づきなど、まだまだ弱い気づきでしかありません。

 

ですから、自己の感情に巻き込まれることも多々あります。

 

いや、むしろ自己の感情に巻き込まれることの方が多いです。

 

しかし、この“気づく”ということに“気づけた”ことだけでも、非常に大きな一歩であると思います。

 

 

瞑想は、修行中だけのもの。

 

瞑想は、お寺にいるからできるもの。

 

瞑想は、出家しているからできるもの。

 

 

“瞑想だけが実践だ!”

 

 

・・・私には、このような思い込みがあったようです。

 

 

この強い思い込みのために“気づく”ということが、一体、どういうことなのかがわからなかったのかもしれません。

 

 

日本でお世話になったある先生から、

 

 

「仏法は、あなたのすぐそばにあるのです。毎日、仏法とともにあるのです。あなたには、そういうことに気づいて生きていける人になって欲しい。」

 

 

と諭されたことがありました。

 

 

また、タイでお世話になったある先生からは、

 

 

「出家であっても、在家であっても同じことです。何も変わりません。」

 

 

と諭されたことがありました。

 

 

今思えば、当時の私は、わかっていたつもりになっていただけでした。

 

どうやらその意味が全くわかっていなかったようです。

 

出家への強い憧れとブッダの悟りへの強い憧れから、どこか「出家しているから成し遂げられるもの。」だという思い込みがあったのです。

 

瞑想は、出家者だけのものではありません。

 

仏教とは、世間のルールであり、真理です。

 

ゆえに、日本で普通の人間として生きている私にとっても、当然当てはまるもののはずです。

 

 

日本へ帰国した後、さらに深く悩むことになりました。

 

そして、大きく迷うことになりました。

 

 

何も得るものはなかったと、今までの自分を全て否定した自分がいました。

 

しかし、今、はっきりと言うことができます。

 

それは、見ようとしてこなかっただけなのだと。

 

ただ、気づこうとしてこなかっただけなのだと。

 

それだから、大いに迷ってしまう結果になってしまったのだと。

 

 

そのことを反省しています。

 

 

見ようとしなければ、見ることはできません。

 

気づこうとしなければ、気づくことはできないものです。

 

そこを見失ってしまったがために、生き方が大きくブレてしまったわけです。

 

毎日の生活の中であっても、十分に自己の観察はできます。

 

 

そのことに気がつくのに随分と時間がかかってしまいました。

 

日々の生活の中で、できる限りの「気づき」を心がけていくことが大切です。

 

そのようにしていくことで、心はおだやかになり、不安や心配は消え去っていきます。

 

そして、安らかなる日々となり、平穏なる生活へとつながっていきます。

 

 

時には、不安や心配が消えないこともあります。

 

心がおだやかにならない時もあります。

 

しかし、ひとつでもふたつでも、たとえほんの小さな怒りや不安、ほんの小さな心配やいらだちなどが消え去れば、それでいいではありませんか。

 

ほんの少しだけ、たとえほんの瞬間であったとしても、心がおだやかになることができれば、それでいいではありませんか。

 

 

それこそが、最も大切な瞑想の第一歩であり、今すぐに実践できる仏教の生き方なのではないでしょうか。

 

それこそが、この世界を生きていくうえで、実に小さな、そして実に大きな実践なのではないでしょうか。

 

 

私は、天を突く世界で最も高いヒマラヤの頂上しか見ていなかったようです。

 

そこしか見ていなかったのです。

 

 

ヒマラヤの頂上へ至るには、まず足元の一歩を大切にしなければならないということをすっかりと忘れていました。

 

私は、そのように考えています。

 

 

気づきの心を少しずつ、少しずつ育てていくことこそが大切です。

 

日々を明るく、おだやかに過ごしていくことに努めていけば、やがて善き心は大きく育ってきます。

 

今、この瞬間を明るく、おだやかに過ごすことができたとすれば、それほど善きことはないではありませんか。

 

今、為すことができる最善のこと、最高のことを為すように努めていけばいい。

 

今、この瞬間の気づきです。

 

 

もしかしたら、ふと気がつけば“天を突く世界で最も高いヒマラヤの頂上”に立っている自分がいるかもしれません。

 

 

(『見ようとすること』)

 

 

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