自ら積極的に善いきっかけに触れていって、善いきっかけとなることを作っていく。
善いきっかけに触れることがなければ、永遠に善い方向へと向かうことはありません。
すなわち、まずは、善いきっかけ作りが大切で、はじめの一歩となります。
仏教の教えの肝要は、「縁起」です。
縁起というのは、因縁生起、つまり原因と結果の法則をいいます。
種を蒔かなければ、芽を出すことはありませんし、花が咲くこともありません。
これはなにも、仏教という宗教のなかだけの話ではありません。
仏教を信じていようがいまいが、教えを知っていようがいまいが全く関係ありません。
私たちが生きているこの世界を貫く「法則」です。
心の動きについても同様です。
「私」が見ている世界は、「私」の心が世界をどのように見るかで大きく変わります。
心が変われば、思考が変わります。
思考が変われば、見方が変わります。
さらに、出会う事象や出会う人までもが変わってきます。
しかし、厳密に言うならば、事象が変わるのではありません。
見方が変わった結果、見える世界が変わるのです。
ここでは、身近な生活の中で、ごく簡単に実践できることに焦点を当ててみたいと思います。
私たちは、知らず知らずのうちに自分が持っている「パターン」に従って行動をしています。
言い換えると、パターンに嵌っているのです。
パターンというのは自分の型、つまり「習慣」や「癖」のことです。
無意識のうちに、いつものパターンに従ってものごとを考えて、行動してしているのが「私」です。
もし、人生を、日常を、自分を、少しでも善い方向へと変えていきたいと望むのであれば、自分の「癖」から抜け出す必要があります。
習慣や癖は、生まれた時から現在に至るまで、長年にわたって刷り込まれてきたものです。
ですから、非常に根深くて、根強いものです。
すぐに変えることは難しいでしょう。
しかし、どこかでこの流れを変えなければ、これからもずっと同じことを繰り返していかなければならず、いつまでも負のスパイラルの中にいることになります。
では、どのようにすれば、この「癖」を変えることができるのでしょうか。
「癖」という、いつものパターンに陥ってしまわないようにするためには、まず「今」私は何を感じていて、何を為しているのかということに「気づく」ことが必要です。
自分をよく知って、自分の行為行動をよく知らなければなりません。
ところが、普段の生活の中で、それらを意識している人はとても少ないです。
自分自身の動きに対して全く無関心であり、気づきがなされていません。
この「気づき」を育てていく必要があるのですが、気づきのトレーニングこそが「瞑想」の実践に他なりません。
例えば、今の感情が心おだやかではなかったとします。
その時、あなたは、感情に任せて怒りをあらわにしてはいませんか?
怒りをあらわにしてしまうのではなくて、この瞬間に「気づき」を入れるようにします。
もし、「今」、自分が何を感じているのかに全く気づきがなされていないのであれば、いとも簡単に自分の感情の中へと巻き込まれてしまいます。
この感情の中へと巻き込まれてしまっている状態が、いつも通りの自分の姿であり、感情のなすがままに流されている自分の姿です。
自己の感情に気づいて、その感情をそれ以上「追いかけない」ことが必要です。
そして、その感情を「手放す」ことが必要です。
まずは、これを実践するようにしてください。
そうすれば、いつもの思考パターンを少しだけ変えることができます。
いつもの行動の「癖」に気づいて、少しだけ行動を変えてみるのです。
日常をおだやかに生きて行くには、心の仕組みを知っておくことがとても大切です。
それは、真理を知ることでもあります。
真理の流れに反して生きていくことは、何十倍、何百倍もの労力をかけて生きて行くことになります。
一方で、真理の流れに沿って生きていくことは、実に安らかで、とてもおだやかな生き方になります。
力を入れて、わざわざ多大な労力をかけながら生きてゆく必要など一切ありません。
ほんの少しだけ見方や感じ方を変えるだけで、人生は大きく善い方向へと変わっていきます。
ひとたび善い方向の流れができれば、その流れは、少しずつ大きくなり、やがては大河となります。
「いつものパターンを変える」ことは、「生活習慣を変える」こと。
「人生に善い流れを作る」こと。
これもまた「善いきっかけ」のひとつです。
小さな小さな「善いきっかけ」は、必ず大きな大きな善い結果につながります。
(『善い生活習慣をつけていく』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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