タイの修行寺では、瞑想実践はもちろん、指導者からの法話を聴く機会がよくあります。
そうした法話の中で頻繁に聴いた言葉のひとつにこのような言葉があります。
『気づきのあるところに智慧がある。』
覚束ないタイ語しか話せなかった私の記憶に残っている言葉のひとつです。
この言葉は、タイのいくつかのお寺の法話で聴きました。
また、何度も何度も聴いた言葉だったことを記憶しています。
にもかかわらず、そのことを思い出したのは、ほんのつい最近のことでした。
瞑想と実生活との溝・・・瞑想を実践されている方であれば、少なからず感じたことがあるのではないでしょうか。
私は、このギャップに長らく苦しんできました。
瞑想を頑張っているのに、ぜんぜん実生活はおだやかになんてならない。
仏教を勉強しているのに、悩みなんて全然なくならないし、以前の私と何ひとつ変わりもしない。
瞑想と実生活とが全く結びつかない・・・瞑想なんてやっていても、全く意味がないではないか!
そのようなことを思ったことがあります。
本来であれば、瞑想が善い方向へと進んでいれば、実生活もごく自然におだやかなものとなってくるはずです。
もし、瞑想がうまく進んでいる一方で、実生活が全くおだやかなものとなっていないのであれば、それは善き瞑想であるとは言い難いですし、瞑想がうまく進んでいるとも言い難いでしょう。
とはいえ、そう簡単に瞑想がうまく進むというわけではありませんし、瞑想を始めてすぐに生活が変わって来ることもありません。
その一方で、悩み多き、迷い多き“現実”は容赦ありません。
実際に生きていかなければならないわけです。
悠長なことなど言ってはいられません。
どうにかして、すぐ目の前にある問題を解決して、次の一歩を踏み出さなければならないのです。
瞑想と実生活とが乖離してしまっている。
生活に役立っているとは思えない。
・・・これは、よく陥りやすい点です。
私も、陥っていたのですから、とてもよく理解できます。
さらに、それなりの瞑想レベルに到達することも、そう容易ではないということもよく理解できます。
瞑想の実践や仏教的な考え方がどのように実生活と関連していて、どのように役に立つのかが全くわかりませんでした。
だからこそ深く悩んで、深く苦しんでしまう破目になってしまいましたし、生きる道が大きくブレてしまう破目にもなりました。
全くもって恥ずかしい限りです。
そのようにならないためにも、できるだけ「気づき」=「意識をした生活」を送ることをおすすめしたいと思います。
どうすることが実生活の上で「気づき」を保った生活で、「意識をした生活」なのでしょうか?
また、具体的にどうすれば、瞑想と実生活との溝を無くすことができるのでしょうか?
それは、できる限り、また機会があるごとに、「自分は“今”何をしているのかということを確認する」ことです。
ごくごくとらえやすい、大きな、粗い、感じやすくて、わかりやすい行為や行動、感情などをひとつひとつ確認していくのです。
例えば・・・
今、パソコンで文章を入力している。
今、キーボードに触れている。
今、机に触れている。
今、ボールペンで字を書いている。
今、○○さんの話を聞いている。
今、○○さんの話で、○○と感じた。
今、○○を、○○と感じた。
・・・と、いった具合にです。
そうすることで、少しずつ見方や感じ方が変わってきます。
自身に注意を向けて、少しずつ「気づく」ことや「知る」ことを身につけていくのです。
そうすれば、特に力まずに、より自然なかたちで、今の自分に「気づく」ことができるようになってきます。
これが実生活との溝を無くすということです。
私は、その実感がありますし、善き変化というか、確実な効果を感じています。
熱心な、あるいは熟達した瞑想実践者の方々からすれば、低いレベルで、邪道なのかもしれませんが、怠け者で、瞑想の能力に欠ける私にとっては、こうした効果を得たことが大きな歩みです。
実生活の上においては、まずは「少しでも心を落ち着かせて、少しでもおだやかな時間を増やす」ということを目指して十分であるかと思います。
怒るよりも、より怒らない方向を考える。
イライラするよりも、よりイライラしない方向を考える。
焦るよりも、より焦らない方向を考える。
取り乱すよりも、より取り乱さない方向を考える。
そのように生きるほうが、日々をより楽に、そしてよりおだやかに過ごすことができるのではないかと思います。
なにより、最も現実的で、実際に可能な生き方であると思います。
瞑想の目的は、あくまでも「悟り」です。
高い境地を目指したいという方は、是非とも目指していただきたいと思います。
もちろん、私もそうしたかったです。
だから、私は、そのような道を志したいという方を応援したいです。
しかし、一方で、私のような凡夫であっても、実践可能で実現可能なおだやかに生きる方法があるのだ、ということをお伝えしたいと思っています。
やってみる価値はとても大きいと確信しています。
仏教の大きな流れのうえから見れば、これもまた仏道です。
「心を落ち着かせる」ことは、「客観的に自己を観察する」という瞑想の基本的な姿勢にも通ずるものです。
瞑想と実生活との溝を無くす。
それは、自身の行動や感情の動きに意識的になることです。
今、自分は何をしているのか?
今、自分は何を思っているのか?
それらを意識的に観ていくのです。
それが、「気づき」です。
その「気づき」がなんとなくであっても構いません。
継続していく中で必ず育っていきます。
ある時・・・少しだけ変わっている自分に気がつくことでしょう。
そして、ほんの少しだけ、自己の感情に流されていない自分に気がつくことでしょう。
それが“智慧”です。
タイで聴いたあの言葉。
「気づきのあるところに智慧がある。」
まさに、このことを教えていたのだとしみじみと感じました。
(『気づきのあるところに智慧がある』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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