タイでは、出家をしたその瞬間から周囲の者たちから、その出家者は一人前の「比丘」であると見なされます。
ですから、まるで何年も比丘をやっているベテラン比丘であるかのような“凛とした”立ち居振る舞いをしていなければなりません。
比丘の衣をまとった瞬間から「比丘」となるのです。
私は、新米比丘です・・・などという言い訳は、一切許されません。
なぜそうするのかがわからなくても、まずはそうしないといけません。
まずは、真似をするんです。
まずは、形を整えるんです。
姿は比丘であっても、全ての比丘が仏教のプロであるというわけではありません。
仏教の教学を修めているわけでもなければ、瞑想修行を修めているわけでもありません。
ごく普通の人間ばかりです。
なぜ、そうするのでしょうか?
どのような理由があるのでしょうか?
そのように質問をしても、
「わからない。」
「そうすることが比丘なのだ。」
「そうしないといけないからそうするんだ。」
といった答えしか返ってきません。
出家生活は、まず第一に戒律を守ることから始まります。
すなわち、形から入るわけです。
明らかに一般の生活とは異なる生活を送ることになるのですが、それが「出家」生活に他なりません。
227の戒律の中に定められていることがらをはじめとして、他にも比丘として好ましくないとされる行為は、もちろん禁じられています。
身近なことで言えば、歯を出して大笑いをしたり、大きな声を出して笑うなどといった行為はしてはなりません。
また、走ってたりしてはいけませんし、スポーツを楽しんでもいけません。
どれもこれもごく日常的な行為ばかりです。
そんな行為でさえも、比丘としては好ましくないとされています。
どうしてでしょうか?
それは、比丘とは「修行者」であり、常に心おだやかであることに努め、常に自己を見つめることに努める者であるからです。
形だけ整えたとしても、中身が伴っていないのでは意味がないではないかとの批判もあるかと思います。
大笑いをしても、スポーツを楽しんでも、自己は見つめられる、冷静になれる。
形よりも中身が大切ではないかと仰る方もいるかと思います。
確かにそうです。
形にばかりこだわって、中身である本質を忘れ去ってしまっては、本末転倒も甚だしいでしょう。
中身であり、本質が大切なのは言うまでもないことです。
しかし、形は心を現します。
人は形を通じて、その心を受け取ります。
逆にいえば、形を通じてしか、その心を受け取ることはできません。
形として現されない心を人は受け取ることができないのです。
形として表現されないことは、伝えることができず、受け取ることもできません。
もしも、間違った表現をすれば、真意ではない受け取られ方をすることもあるでしょう。
表現を間違えると正しく伝わりません。
形を整えることは、自己を整えることでもあります。
形は自己を鍛練していくことに他なりません。
いまだ中身が伴っていなくとも、常に形を整えようと努めることによって、少しずつ磨かれてゆくものです。
常に整えてゆこうと努めることで、中身も整えられてくるのです。
それこそが形から入ることの大きな意味です。
形を整えることは、自己への呼びかけであり、自己の鍛練そのものです。
タイの人たちの多くは、「悟り」や「真理」を求めて出家しているわけではありません。
単なる「習慣」として出家をする者が大多数です。
仕方なく出家をした者もいることでしょう。
しかし、どの比丘も神々しく、 こんな姿を今までに見たことがあっただろうかというほど崇高な雰囲気を醸し出しています。
その人柄、その生き方や考え方、そして生活態度に至るまで・・・
一緒にいるだけでもこちらの身が整えられてくるような、とでも表現したらよいのでしょうか。
この感覚は、そういった出会いを果たした者にしかわからないかもしれません。
仏教の形から入るということは、自己の心を磨きながら、生き方を身につけていくことであり、仏教そのものを伝えていくことでもあります。
生活態度、考え方、生き方に至るまで・・・僧院生活の中で身につけてきたもの。
日常を整えることの大切さを教えられました。
心身ともにおだやかな比丘の姿。
形は心を現し、形は人の心を育てるのだということの証なのだと私は思います。
(『形は心を育てる』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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