新・タイ佛教修学記

人間・ブッダと出会う

 

日本で「ブッダ」が語られる機会は、とても少ないです。

 

日本の仏教は、宗祖仏教ですとか、宗派仏教だとよく言われます。

 

各宗派の宗祖の「声」は、しっかりと耳をすませば、聴くことができるのかもしれません。

 

私と同じ日本という地に生きた方々という意味では、とても身近な存在ではあります。

 

 

それでは、日本でブッダの声を聴くことはできるでしょうか?

 

人間・ブッダの声を聴くことはできるでしょうか?

 

 

日本仏教の歴史の中では、ブッダの声を聴こうとした高僧方もいました。

 

そうした高僧方には、ブッダの声を聴くことができたのかもしれません。

 

 

しかし、私には聴こえませんでした。

 

聴くことができませんでした。

 

 

私には能力がないからなのでしょうか・・・

 

私の機根が劣っているからなのでしょうか・・・

 

おそらく、そのどちらもあてはまっているのでしょうね。

 

 

そんな機根の劣った私でも、ほんの少しだけ、ブッダと出会えたような気がした確かな“瞬間”がありました。

 

 

それは、タイでの出家生活でした。

 

タイでの修学を通じて、仏教の見方が少し変わりました。

 

人間・ブッダに出会うことができた・・・そのような気がするのです。

 

 

タイの仏教は、ブッダの正統を受け継いでいるとの誇りがあります。

 

「ブッダの正統」とは、教義やその実践などの全てを指します。

 

その中で、最も重要な存在となるのが戒律です。

 

戒律は、ブッダから連綿と伝持されてきたものであるとされています。

 

比丘となるには、ブッダ以来の戒律を受けて、持戒の生活を送らなければなりません。

 

戒律は、師僧となる比丘から授けられます。

 

その師僧である比丘も、やはり師僧より戒を受けます。

 

師僧をたどっていくと、やがてはブッダに行きつく。

 

そうした流れのなかに自身もいるのだという誇りがあります。

 

 

ブッダから受け継いでいるものが今ここにある。

 

そうした確かな自覚とプライドがあるのです。

 

 

日々の出家生活も、ブッダの時代から連綿と受け継がれてきたものであると認識されています。

 

出家の生活様式のひとつひとつがブッダの時代のものに基いています。

 

 

鉢を持って托鉢に歩く。

その鉢で食事をとる。

衣服は、ブッダもそのようにしていたであろう一枚の布をまとう。

そして、その布をまとって日々の生活を送る。

 

 

上座仏教も2600年の長い歴史の中では、さまざまな変遷や変容があったことでしょう。

 

ブッダの時代とは異なるものも当然あることかと思います。

 

何もかもがブッダの時代と同じであるはずはありません。

 

 

しかし、器の中の水を別の器へと一滴たりとも漏らさずに移していくが如く、何ひとつ変えることなく、そのままを受け継ぎ、次に伝えていく・・・受け継いだものは、正確に次へと伝えていかなければならないのです。

 

それが上座仏教という仏教です。

 

 

日々の生活の中にもそうした姿勢を垣間見ることができます。

 

戒律を守る生活の中で何か疑問に思う点があった時には、

 

「ブッダはどのように言っているのだろうか?」

 

と問いかけると、すぐさま戒律に通じた比丘を呼んできて、

 

「ここにこのように書いてある。

だから、これが正しい。」

 

といった会話をよく耳にします。

 

 

タイでは、全てにおいてブッダがどのように言ったのかということろに立ち返ります。

 

 

嗚呼、ブッダ・・・

 

嗚呼、偉大なる師、ブッダ・・・

 

 

ある時、私の前にある仏像が、実際の人間であるかのように思えた瞬間がありました。

 

それは「ほとけ」でもなく、「神」でもありません。

 

もちろん単なる「仏像」でもありません。

 

直接、教えを受けているかのような、人と人とが面と向かい合っているかのような感覚。

 

 

偉大なる師。

大いなる師。

誰よりも卓越した人生の師。

 

 

ブッダは、どこか懐かしく、優しく諭してくれる先生だった。

 

ブッダもまたこの私と同じく、この世に生を受け、また悩み苦しみの中を生き抜いた一人の人間でした。

 

 

そう、人間・ブッダだったのです。

 

 

私が偉大なるブッダを「師」ですとか、「先生」などと呼ぶことは、まったくもって畏れ多いことではありますが、こんなにも「ブッダ」という存在が身近に思えたことはありませんでした。

 

悟りを開いたブッダとは、日本では釈迦如来、釈迦牟尼仏、釈尊、釈迦などと呼ばれます。

 

今まで、「釈迦」とは、どこか超人的な、私とは違う存在だと思っていました。

 

 

仏という、私とは大きく異なる存在。

 

すこぶる優れた能力をもった人。

 

私には届き得ない能力とその境地。

 

 

どこかそのような感覚で歴史上の「釈迦」という人物をとらえていました。

 

もちろん・・・私には届き得ない存在なのではありますが。

 

 

ブッダも私と同じ人間だとするのは、やはりあまりに畏れ多いことです。

 

しかし、ブッダその人がどこか身近に思えたのです。

 

 

そうした人間がいた。

 

そうした生き方をした人間がいた。

 

 

人間・ブッダ。

 

 

ブッダと出会うことができた。

 

 

そのように感じることができただけでも、ほんの少しだけ仏教を体得できたのではないだろうか・・・

 

タイでの出家を経て、私はそのように感じています。

 

 

(『人間・ブッダと出会う』)

 

 

読むだけで心がおだやかになるメルマガ
『こころの探究のはじまり』

 

無料メルマガのご登録

 

 

-新・タイ佛教修学記
-

Copyright© 伊藤允一(いとうまさかず)公式サイト , 2020 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.