タイ・バンコク近郊のパトゥムターニー県にワット・プラ・タンマカーイ(以下タンマカーイと表記します)という大寺院があります。
このお寺は、とても特徴的なお寺で、他のタイの伝統的なお寺とは大きく違います。
タイ通の方であれば、おそらくご存知かと思いますし、タイでもいろいろな意味で有名なお寺ですから、知らないタイ人はいません。
しかし、問題なのは、なぜ有名なのかという点です。
実は、何かと世間を騒がせているお寺で、日本でも何度かインターネット上で話題となっているのを確認しています。
規模と言い、影響力と言い、もはや現代タイ仏教を語るうえでは避けては通れない存在です。
批判的なことは書かないことにしていますが、タンカーイについては、タイ人の間でも批判的な意見が多いので、別記事で敢えて触れていますので、ご参照ください。
ここでは、私自身の実体験に基ずいた話題を中心としてお伝えします。
タンマカーイは、瞑想法(別に記事を設けていますのでここでは触れません。)やお寺の規模、布教方法や信者の集客力、全ての分野において他のタイのお寺とは異なる力を持っていて、全ての面において群を抜いています。
まず、誰もが「タンマカーイ」だと判別できる“特徴”を挙げてみます。
○仏塔
タンマカーイの仏塔は、タイの伝統的な様式(伝統的といっても、地方によってその様式が異ります。)とは大きく異なって、まるでUFOのような、巨大な円盤のような形をした仏塔です。
その仏塔の容姿は、誰が見ても大変強く印象に残るものです。
ちなみに、タンマカーイが使用しているロゴマークは、この仏塔をデザイン化したものです。
○仏像
タンマカーイの仏像もまた、タイの伝統的な様式の仏像(仏像も時代によって様式が異なります。)とは大きく異なって、非常に特徴的なものとなっています。
一目見るだけでタンマカーイの仏像だとわかるものです。
言葉では説明が難しいのですが、マネキンのような、ロボットのような、どこかリアルな人の姿を現したもののような印象を受けます。
それは、すでに“タンマカーイ様式”ともいえる独特な様式の仏像だと言うことができます。
さらに、(これは個人的な所感ではありますが)大乗仏教的思想が入っているという点を挙げることができるかと思います。
もっともこれは、公式な場で聞いたものではなく、私が僧坊を同じくした比丘たちから教えられた事柄です。
よって、タンマカーイの公式な教学としては存在しないのかもしれませんが(もちろん、タイサンガの一員であり、上座仏教である以上は、タンマカーイ独自の教学というものは本来であればあり得ないはずです。)、一般の比丘からこのような教えを聞いたということは、内部において類似するようなことがらが教えられているという可能性を考えることができます。
これは、あくまでも私個人の想像の域を脱し得ないものですが、とても興味深いです。
それでは続いて、以下にその大乗仏教的思想を紹介することにします。
○タンマカーイにみる大乗仏教的思想
「タンマカーイ(※)」に至るには、個人の持つ『徳』により、早いか遅いかの違いがあるが、一生懸命に瞑想をすれば誰にでも到達が可能な境地である。
※「タンマカーイ」・・・パーリ語:ダンマ・カーヤのタイ語訛り。ダンマ・カーヤ=法身。ただし、大乗仏教でいう「法身」とは意味が異なるので注意が必要です。ここで言う「タンマカーイ」とは、この寺院の瞑想法によるひとつの境地のことを言います。
そして、タンマカーイの境地に至れば、苦しんでいる人々を助けることができる。
さらに地獄の世界に落ちた人々をも助けることができる。
タンマカーイの境地に至り、さらに進んで涅槃の境地に至ることも可能であるが、タンマカーイの境地に留まり、人々を助けることのほうが望ましい。
ルアンポー(タンマカーイ寺院の現住職=ルアンポー・タンマチャヨー師)は、生きているすべての者を涅槃へと至らせなければ、自身は涅槃へは至らない。」
と教えられているのだそうです。
どこかで聞いたことがありませんか?
まさに、大乗仏教の菩薩道です。
「菩薩」とは、上座仏教では修行時代のブッダを指し、菩薩による“救済”というのは上座仏教の教学にはありません。
しかし、タンマカーイの境地に留まることによって、人々の救済がなされるのだと説明しているところがとても興味深いです。
タイ仏教の歴史の中では、地獄が強調されるものや阿羅漢が教化するといった要素のものは伝えられてきてはいますが、タンマカーイのものはタイ在来のそれとは大きく異なります。
しかも、現住職がその救いの役目に当たっているという点も、特長的であるといえます。
タンマカーイでは、出家者、在家者ともに、多くの華僑が信者となっていて、その影響を受けたものなのでしょうか。
次に紹介するものは、タンマカーイ寺院で説法を聴いた時に受けた印象です。
○堕地獄と生天
(地獄に堕ちることと、天界へ生まれること)
タンマカーイで特に印象に残ったのは、『地獄』と『天』についての説法です。
もっとも、『地獄』や『天』は、タイの仏教では「業」の思想と共に深く一般に浸透している考え方ではありますが、タンマカーイではそれらが特に大きく強調されているような印象を受けました。
一般のレベルでは、瞑想を行って、善行を積むという行為は、涅槃を求めるための修行というよりも、来世は現世よりもより善い境地に生を受けるため、あるいは天界に生を受けて苦しみのない日々を過ごしたいという願いによるところが大きいです。
阿羅漢の境地を求めたいといったような、より深く仏教を追求する者を除けば、堕地獄と生天の考え方は、タイではごく一般的な仏教理解であると言えます。
そうしたタイの思想的背景の中にあって、さらに強調されていると感じるということは、よほど強調されているのだと思います。
また、タンマカーイでは、飲酒や喫煙が堕地獄の原因であると強調していて、布施や持戒が生天のための善行であると強調しています。
さらに、これらの内容を盛り込んだ歌やアニメを様々な映像や画像と組み合わせて、説法の間に放映して誰にでもわかる形で伝えています。
余談ではありますが・・・アニメや様々な映像や画像と組み合わせた説法は、視覚と聴覚の双方から訴えるもので、子どもから大人までとてもわかりやすいものです。
一般的なタイのお寺でも、地獄の絵や天界の絵などはよく見かけます。
いわゆる「絵説き」ですが、タイでは特に珍しいものではありません。
日本でも、タイの「地獄寺」が有名になりましたよね。
(興味のある方は、インターネットを検索してみてくださいね。)
あそこまで大規模ではないものの、多くの寺院に似たようなものはあります。
善行や瞑想といった「徳」のある行いを勧めるというように、個人の積徳が説かれること自体は珍しくありませんが、これらを歌やアニメを使いつつ、様々な映像や画像と組み合わせて、さらにホール正面の巨大モニターと柱ごとに設けられた大きなモニターとを駆使して放映しているという点は、非常に斬新です。
経済成長が著しく、発展した当時のタイにおいてもまだまだ珍しかったです。
今でこそ当たり前のこうした手法は、当時は、日本でさえも見たことがありませんでした。
それをタンマカーイが実施していたのですから、私も驚きました。
ちなみに、説法はタイ国内国外の各支部へと衛星中継されていて、同時に世界各地で聴聞することができます。
説法の衛星中継というのも驚きでした。
別室にある事務所でイギリス人比丘がルアンポーの説法を同時通訳、同時配信している姿を見せていただきました。
やっとオンラインが一般に普及し始めた令和の日本ですが、「オンライン説法」をすでにやっていたのですから、いかに当時のタンマカーイが先進的だったかがわかります。
この堕地獄と生天思想の強調がタンマカーイの特徴のひとつなのではないかと思います。
堕地獄と生天、そして瞑想と大乗仏教的な救済という構図が浮かんできます。
タイ人は徳を積むためにお寺へと足を運びます。
お布施をします。
瞑想をします。
誰のために徳を積むのでしょうか・・・もちろん自分のためです。
あるいは、両親のため、親しい人のためであったりとさまざまです。
そのような背景の上にタイ仏教が成り立っています。
タンマカーイにおいてもその根底は、このようなごく普通のタイにおける素朴な仏教となんら変わりありません。
しかし、タンマカーイには、タイの伝統的な仏教の枠組みの中には収まりきらない、従来の仏教との大きな違いを感じました。
(『とても特徴的なお寺 ワット・プラ・タンマカーイ』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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