新・タイ佛教修学記

日本の社会で生きるからこそ必要なこと

2022年2月2日

 

日本の社会で生きるからこそ必要なこと

 

『タイで出家してきた人の
その後の人生が知りたいと思いました。』

 

このように言葉を
かけられることがよくあります。

 

大きな期待を
裏切ってしまうのかもしれませんが・・・

 

私は、いたって普通の生活をしています。

 

これといって特別な生き方を
しているわけではありませんし、

 

ストイックな生活を
送っているわけでもありません。

 

怒りもしますし、
落ち込みもします。

 

全くもって素晴らしい人格で
あるわけではありません。

 

しかしながら、
タイへ行って出家までしてきた人って、
一体どんな人なの?と思われるようなのです。

 

 

◆誰にも理解されない◆

 

 

私の場合は・・・

 

幼少の頃から
仏教に興味を持っていて、

大学で仏教を
専門的に学ぶ機会に恵まれました。

 

紆余曲折あったものの、
その流れのうえにあるものなので、

ごく自然な成り行きだったと
(自分では)思っているのですが、

普通に考えればわざわざタイまで行って
出家するという選択には至らないわけで、

当然と言えば当然の
疑問なのかもしれません。

 

実は、私の家族でさえも、
私がどうしてそういった考えに
至るのかということが
全く理解できないと言います。

 

仏教に興味を持ったが故の、
自己を探究しようと思ったが故の
筋道なのですから、

他者には到底理解の及ばない
範疇のものだとは思います。

 

そこは家族であったとしても
所詮は他者。

 

理解できない範疇が
あるのは“お互い様”なのです。

 

 

◆学びは人それぞれ◆

 

 

タイでの出家経験を
持つ日本人というのは、

実は、結構、
たくさんいらっしゃいます。

 

私がタイにいた当時、
現在も比丘(お坊さん)を
続けていらっしゃる方々も含めて
13人の日本人比丘がいらっしゃいました。

 

ご存知の通り、
タイの仏教には出家・還俗の出入りがありますし、

私が知らない情報やごく短期間の
一時出家をされた方もいるかと思いますので、
この数字は正確なものではないかもしれません。

 

そうした方々が
タイでの出家で何を学び、
何を得たのか・・・・

 

それは、出家の目的も違えば、
出家した動機も人それぞれに違うので、

当然、その学びや
得たものも人によって全く違います。

 

私がタイで得た学びや生き方、
感じたことやつかんできたことなどは、

このメルマガをはじめとして、
折に触れてFacebookや
ブログなどで綴っています。

 

 

◆帰国後の学びのほうが大きい◆

 

 

なかでも、最近、
特に深く感じていることは、

 

「還俗後の学びの方が大きい」

 

ということです。

 

日本へ帰国してからの
学びの方が多いということです。

 

ああ、そうかと感じること。

 

これは、
そういうことだったのかと感じること。

 

そのようなことが
実にたくさんあります。

 

そればかりではありません。

 

より自然に、より力まずに
生きることができるように
なったように感じてます。

 

皮肉にも、
タイで出家していた時よりも、

今の日常生活のなかでのほうが
より深く瞑想の学びを
味わっているのです。

 

困難な出来事や
苦しい場面に出くわすと、
さらに深い学びが得られるのです。

 

 

◆日本の社会を生きるからこそ必要なこと◆

 

 

出家の生き方、
特にタイの仏教での
出家の生き方というものは、

ごく簡単に
ひとことで表現をするとすれば、

「精神生活に専念する生き方」

であり、さらには、

「瞑想実践に専念する生き方」

であると言えるのではないでしょうか。

 

出家中は、
自己の持つ欲望の制御であったり、

自身が想い描いているように
うまく瞑想が進まないことに対する
感情の制御であったり・・・

 

そうしたことがらに深く苦悩した
日々であったかと記憶しています。

 

(今ももちろん、
そうした苦悩はあるのですが)

 

還俗後(帰国後)には、
3年間の出家生活と
帰国後の日本での生活との
“ギャップ”に苦しみました。

 

大きなギャップに苦しむ中で、
瞑想を捨て去ってしまい、
忘れ去っていた時期もありました。

 

しかし、ある時、
瞑想を捨て去ってしまっては、

私の学びの全てを
捨て去ってしまうことに
等しいと思い直したのです。

 

学びは、
「0」か「100」かの
二者択一ではありません。

 

「100」のうちの「1」でも、
「5」でも、「10」でも、

たとえほんの少しであっても、
学んだことがあれば、
それは立派な学びなのです。

 

振り返ってみますと、
そこからが私の再スタートで、

少しだけものごとの
見方や捉え方が変わった瞬間でした。

 

生きていれば
必ずさまざまな苦しみや
たくさんの困難に出会います。

 

苦しみに出会ったその時、
困難に出会ったその時・・・

 

どのように捉え、
どのように選択し、
どのように行動していくのか?

 

これらのことが問われます。

 

瞑想の学びは、
日を追うごとに

出家していた当時よりも、
はっきりと実感することが
できるようになってきました。

 

様々な場面で、
様々な価値基準となり、
様々な判断基準となりながら、

私の中にしっかりと
生きているのだということが
自覚できるようになってきたのです。

 

その「学び」を具体的な
言葉として表現することは、
正直に言いますととても困難です。

 

適切に表現することができません。

 

ただひとつだけ
具体的な言葉として
表現できるものがあるとすれば、

「心をおだやかに保つこと」

「最善を生きる」

ということになるのでしょうか。

 

これは、私が今までに
さまざまな悩みや苦しみのなかを
遍歴してきた中で
最終的に行きついた答えです。

 

私と直接ご縁のあった方々には、
よくお伝えさせていただいていることですので、

耳に残っている方も
いらっしゃるかもしれませんね。

 

どうして出家している時に
もっともっと実践できなかったのかと
悔やまれるところです。

 

どうしてもっと学びを深めて、
どうしてもっと早くこうした視点を
身につけることができなかったのだろうか・・・。

 

そのように
思うこともしばしばあります。

 

しかし、出家の身であったとしても、
在家の身であったとてしても、

その人にとっての
悩みを越えるべき時というのは
変わらないのではないかと思うに至りました。

 

すなわち、
“機が熟す”時は、

たまたま出家の身で
あることもあるだろうし、

たまたま在家の身で
あることもあるだろうということです。

 

出家者としてその壁を越えことになるのか、
在家者としてその壁を越えることになるのかの
違いなのではないか・・・

 

私は、そのように感じています。

 

これは、一生かけて実践していくだけの
大きな価値がある“修行”なのだなと思っています。

 

 

(『日本の社会で生きるからこそ必要なこと』)

 

 

タイで“瞑想”修行

日本で“迷走”修行

 

タイの森のお寺で3年間出家

“瞑想”から“迷走” そしてまた“瞑想”へ

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