私は、眠らずに瞑想する修行や断食しながら瞑想する修行の実践が終わったあとも、長らくその森の修行寺で過ごしました。
ある時、アチャン(先生)の“お付き”として、バンコクの信者さんのところへ一緒に出かける機会がありました。
信者さんの迎えを待つため、街なかのベンチにアチャンと一緒に腰をかけながら、他愛のない会話を交わしていた時のことです。
・・・アチャンが私に対して、ぽつりと言った言葉がとても心に残っています。
「ものごとには段階というものがあります。
次の段階の修行がありますからね。
あなたは、まだ(先生が示した)修行を全て卒業したわけじゃありませんよ。」
と、アチャンは、うっすらと笑みを浮かべながら私に言われました。
私のことをよく見ていてくださったようで、とても嬉しかったです。
しかし、一方で、お前はまだまだなのだぞと言われたようでもあり、少し悲しいような、実に意味深長な言葉でもありました。
ぽつりとアチャンが言った言葉の真意は、今でも私にはわかりません。
わからないのだけれども、どこか心を見透かされたように感じ、一瞬、ドキリとしました。
・・・というのも、実は、この時、私は内心ではとても迷っていたからです。
もしかすると、その心がアチャンには見えていたのかもしれません。
もうひとつ、私とアチャンの2人だけの時に、私に言われた言葉があります。
私が徹夜で歩行瞑想をしていた時に、あまりの強烈な眠気に倒れてしまったその瞬間を見ておられました。
「(眠らない修行の)歩行瞑想で倒れるまでやった人は、あなたが初めてです。」
やはり、どこか私のことをしっかりと見ていてくれたように感じる気持ちの方が大きくて、大変励まされました。
とても嬉しかったことを覚えています。
しかし・・・
いろいろと考え合わせたのち、私が出家をしたチェンマイの山奥にある小さな森のお寺へと帰るという結論を出し、その意志を固めました。
そして、ほどなくしてこの修行寺をあとにしました。
・・・山奥の小さな森のお寺では、ひたすらやってくる日々の中で、ただ淡々と瞑想に励む日々を過ごしました。
規則正しい生活を送りつつ、お寺で定められた日課の中で、自分に合ったペースを守りながら瞑想を実践していく。
毎日、同じ生活を繰り返していくなかで、地道に、根気よく、こつこつと積み重ねていく。
これが、私にとって最も適した実践スタイルで、最も良い修行方法だという結論に至ったのでした。
瞑想の生活は、実に孤独です。
どこへも逃げられません。
誰も助けてくれません。
それが瞑想修行です。
いや・・・これは、瞑想修行に限った話ではありません。
今、当時のことを振り返りながらこの記事を書いているのですが、このことは、はっきりと断言できます。
瞑想修行であろうとなかろうと、出家であろうとなかろうと、何ひとつ変わるものではありません。
この人生そのものもまた孤独なものであるということです。
どこへも逃げられないものであるということです。
瞑想修行と全く同じです。
徹底して自分自身を観察していかなければならないのは、瞑想中であっても、出家の生活であっても、在家の生活であっても、すべて同じです。
まさに、仏教の実践とは、瞑想の生活そのものであり、人生そのものであるということです。
かつ、日常の生活そのものでもあります。
それこそが、ダンマ(法)であるということです。
最終的には、試行錯誤しながら、自分で判断をしながら進んで行かなければなりません。
これは、毎日の生活、さらには人生そのものも全く同じです。
私は、タイへ瞑想を学ぶために行きましたが、実は、人生そのものを学ぶために行ったのかもしれません。
どんなことも徹底して観察をしていく。
それは、気が遠くなるほど遥かなる道です。
つい、私なんかには不可能だと諦めてしまいたくなるほど遥かなる道です。
しかし、それが、おだやかなる心への唯一の道なのではないかと改めて思うのです。
厳しい修行、激しい修行、極端な修行をやらずにはおられなかった・・・。
私にとってそれは、求道への、修行への、そして悟りへの篤い篤い思いの発露に他ならないものでした。
でも、そんな修行を実践する必要はありませんでした。
私にできることを地道に継続してやっていく。
これこそが最も自然な生き方なのだと思います。
(『私が至った結論』)
※アイキャッチ画像は、
『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より。
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”から“迷走” そしてまた“瞑想”へ
自己を探究していくお話を
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