こんな情けない姿の自分を見せることに少し躊躇しましたが、タイで出家する前にお世話になった“ある先生”を訪ねました。
先生は、若かりし頃に・・・おそらく3、40年くらい前のことでしょうか・・・私と同じくタイで出家して、さらにスリランカへと渡って修行に励まれた経験をお持ちの方です。
私のタイでの出家を応援し、そっと背中を押してくれた唯一の人です。
私にとって、唯一人の理解者であると言ってもいい方です。
その先生に、私の近況と心の内を打ち明けました。
そして、今の心境を素直に伝えました。
先生は、おだやかにゆっくりと微笑んで、全てを見通したかのような表情で私にこのように言いました。
「どうも出家をしてきた人の言葉とは思えないなぁ。
一度は、出家を志したのでしょう?
あなたは、全てを捨てたいと思った。
そして、全てを捨ててタイで出家を果たしてきた。
それならば、何も恐れるものなどないでしょう。
悩むことだって、何もないはずでしょう。
そのためにタイへ行ったのではなかったのですか?」と。
先生は、そのまま優しく微笑しながら、しばらく私を見つめていました。
私がタイへと渡ったのは25歳の時でした。
日本へ帰国して、再び社会人として働き始めたのが29歳の時でした。
帰国して、周囲を見渡してみれば、みんなの生活はどうでしょうか?
マイホームを持っている。
マイカーを持っている。
明るい家庭を持っている。
仕事では、チームリーダー、主任、係長、課長・・・
会社の経営者までいます。
みんなそれなりの社会的地位を築いているではありませんか!
バリバリと働いているではありませんか!
一方で、私はどうでしょう?
何もありません・・・。
先生からの言葉に「ハッ」とさせられました。
頭からいきなり冷たい水を思いっきり浴びせられたかのような気持ちでした。
このときの先生からの言葉を、その後も、何度も何度も反芻(はんすう)しました。
繰り返し、繰り返し、私の心の中に響きました。
初めのうちは「情けない」気持ちしかありませんでした。
まさにその通りだったからです・・・「出家を志した者の言葉ではない。」のです。
自分でも納得するほど核心をついている言葉でした。
しかし、少しずつ心が落ち着き、少しずつ心境が変化してきたのでした。
私が惹かれた世界は、そうした世界ではなかったはずです。
そのように考えた時、私は思いました。
全ては、私自身の“心”が生み出した結果に過ぎなかったのではないかと。
今までに出会った出来事、遭遇した体験・・・自分でも失笑してしまうほどの出来事ばかりです。
これらはみな、私自身が自己を見失って、苦しんで、迷っている“心”が生み出した当然の結果なのではないかと。
そのことを「体得」するために、そのことを十分に理解をして、身につけたいと思ったがために、遠くタイのお寺まで行って出家をしてきたのではなかったのでしょうか。
先生の私への言葉と微笑。
そうだった・・・
そうだった!
タイで学んだこと・・・
それは、言葉で他人に伝えられるものではありません。
なぜなら、それらは形があるものではないからです。
自分の中でさえも、まだはっきりとしてはいません。
やがては、自分の中で昇華されてゆくものであると表現したらよいのでしょうか。
現在・・・このブログの記事を書いている今もなお、それらはまだ昇華されてはいません。
しかし、昇華されつつあると思っています。
そして、おそらくは、この先、昇華されるであろうという確信があります。
やっとここまで来ることができたということなのでしょうか。
大変、恥ずかしながら・・・。
今までの体験を振り返って、「心の本性」というものに照らし合わせてみた時・・・次にとるべき行動がわかります。
これまでの奇怪な出来事の数々は、そうした心の本性を“体得”することを求めた結果だったのでしょうか。
あるいは、奇怪な出来事を通して学ぶことができたということなのでしょうか。
タイで学んだことなど、全て無意味でした。
全てが中途半端でした。
何も得られませんでした。
結局は、元の木阿弥でした。
全てが無意味であったのかもしれませんけれども、もしかすると、意味があったのかもしれないと思うようになりました。
タイでの経験は、しっかりと私の中で生きています。
今の私は、過去の私の結果です。
未来の自分の姿を知りたければ、今の自分の姿を見ればいいのです。
(『無意味に意味を見い出せた瞬間』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”から“迷走” そして“瞑想”へ
自己を探究していくお話を
45話に渡って配信しています
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