上座仏教(南伝仏教、テーラワーダ仏教)について片っ端から調べました。
しかし、当時は、上座仏教についての情報は、とても少なかったです。
当時、上座仏教関係の本は、今ほど多くは出版されていませんでした。
上座仏教の国といえば、タイ・ミャンマー・スリランカが知られています。
そのなかで、タイ仏教とミャンマー仏教についての本は数冊出版されていました。
瞑想関係の本をはじめ、入手できる本は取り寄せたりして、可能な限り読みました。
インターネットがまだまだ充実していなかった時代。
メールでのやり取りが少しずつ普及し始めて、ホームページが充実しつつあるといった時期でした。
ほとんど有力な情報は得られませんでした。
上座仏教については、学生時代に南伝仏教研究の第一人者である某教授の講義を受けたことがありました。
しかし、あくまでも概論で、教義内容の核心に迫るものは、何ひとつなかったように記憶しています。
ただ、講義中に、教授が若かりし頃、タイで2年間の出家生活をご経験なさったことがあるというお話をされていたことをはっきりと覚えています。
そして、教授がタイで撮影したモノクロの比丘姿(南伝仏教のお坊さん)の記念写真を学生に披露してくださいました。
この時ばかりは、私は目を輝かせて食い入るようにして写真を見ていたことを覚えています。
当時は、特に意識をして講義を聴いていたわけではありません。
タイで出家など夢にも思っていません。
しかし、今でも鮮明に覚えているということは、当時から“出家”に関心があったのかもしれません。
振り返ってみると、こうして私自身が上座仏教に興味を抱き、出家を志したということも、何かの縁なのかとも感じています。
一般的に仏教の瞑想に興味を持つとなれば、「禅」から入る人が多いのではないでしょうか。
ところが、私は禅には全く興味を持ちませんでした。
それは、高潔な方との出会いが全くなかったためか、当時の私には、たとえ禅に励んだとしても、悟りに近づけるとはどうしても思えなかったからです。
その一方で、上座仏教の瞑想には大きな可能性を感じました。
禅のように理屈っぽくなくて、よりシンプルで、わかりやすい。
この私にも実践できて、かつ悟りに近づけるような気がしたのです。
また、その論理は、学生時代から学んできた仏教となんら矛盾するところがなく、すっと私の腑に落ちました。
そして、もうひとつ。
「森のお寺」(森の修行寺)の存在を知ったことがとても大きかったです。
上座仏教のお寺といえば、きらびやかな寺院や美しい姿の仏塔を想像しますが、森のお寺は違います。
質素な建物、簡素な生活、そして静寂の中での瞑想生活・・・。
ブッダの時代を彷彿させる生活様式が現在でも守られています。
上座仏教への想いはさらにかき立てられていきました。
しかも、誰もが出家することができて、さらに外国人へも広く門戸が開かれているというところも、とても魅力でした。
こうして、私の心は、いつしか「出家」する意思を固めていました。
(『決意、固まる』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
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