新・タイ佛教修学記

最善を生きる ~今できることを実践する~

2020年11月17日

 

北タイの山奥にある

小さな森のお寺で出家をした私は、

タイ語を学ぶためにチェンマイ市内の

とあるお寺へと移りました。

 

森のお寺というのは、

修行のためのお寺であり、

他者との会話はごくごく限られています。

 

会話はないに等しいと言っても

過言ではありません。

 

一日中何も話さない日もありました。

 

ただひたすら瞑想に励むには、

森のお寺という環境は、

最適の場所ではあるのですが、

言葉を学ぶためには、

やはり他者との会話は必須です。

 

とにかく話さなければなりません。

 

話して、学んで、

また話して、学んで、

そして調べて、また話す・・・。

 

自分の口で言葉を話して、

自分の耳で言葉を聞かなければ

言葉の上達はあり得ません。

 

 

そこで、

私が出家した森のお寺の僧院長と

相談をしたうえで、

町のお寺へと移ることにしました。

 

出家生活というのは、

お寺での集団生活ですから、

やはり言葉の壁は、

どうしても越えなければなりません。

 

なによりも、

タイで生活をして、

修学をしていくわけなのですから、

どうしてもタイ語が

話せるようにならなければなりません。

 

 

ところが・・・

 

 

何から勉強したらよいのかもわからず、

教えてくれる人もいない。

 

初めて見るタイ文字のアルファベットを

覚えるだけでも相当なものです。

 

タイ語には、

日本語のように句読点がないので、

単語や文章がどこで区切られているのか

すらもわかりません。

 

何が文字で、

何が数字なのかもわかりません。

 

こんなような調子ですから、

言うまでもなく大変苦労をしました。

 

やはり、

語学の習得は必須で、

私の考えの甘さを

大いに反省させられました。

 

 

そんな絶望的とも言える私を

温かく迎え入れてくれて、

とても親切に接してくれたのが、

チェンマイの下町のお寺と

人情味溢れる温かな人々だったのです。

 

苦労をした場所だっただけに、

この下町のお寺は私にとって、

とても思い出深い場所になりました。

 

 

ここでの人々とのふれあいは、

苦労をしたこと以上に

私の心に深く残っています。

 

 

タイの社会は、

人と人とのつながり、

すなわち友達であったり、

知り合いであったりの

紹介であったりといった具合に、

人と人との繋がりで強くつながっています。

 

自分の目的に応じて、

人脈をたどっていくようです。

 

出身地や出身学校、

出身寺院などでつながっているのです。

 

これは、

どこか日本でも想像できる人間関係ですが、

その緊密さは日本以上のものが

あるように感じました。

 

 

チェンマイ市内のこのお寺は、

私が出家前にあるきっかけで

訪問したお寺だったのですが、

実際にそのお寺に

私が住むことになるとは

思ってもいませんでした。

 

 

私が出家をした

森のお寺の僧院長からも、

 

「もし、あなたが知っているお寺があるのなら、

ぜひ行ってみなさい。」

 

という言葉をいただき、

話がまとまっていきました。

 

引っ越しの日には

僧院長も、直接、

私と一緒にチェンマイ市内の

このお寺へと出向いてくださり、

直々に挨拶を交わしてくださいました。

 

 

さぁ、ここから先は、

右も左もわからないタイの地で、

全て一人で責任を持って

やっていかなければなりません。

 

突然、知らないところへ

放り込まれてしまったかのようで

怖くもありましたが、

実際に人とふれ合っていくなかで、

その不安も少しずつ和らいでいきました。

 

 

タイ語の習得について言えば、

私は長らく「後悔」といっても

いいほどの思いを持っていました。

 

タイ語がもっと理解できれば、

もっと深くタイの仏教を理解できたはずです。

 

そればかりではありません。

 

もっともっと深く

私の抱える疑問や私がぶつかった壁を

解決できたに違いありません。

 

 

タイには、

とても素晴らしい先生方や長老方、

瞑想指導者の方々が

たくさんいらっしゃいます。

 

タイ語を深く理解していれば、

もっと深い質問ができたはずだからです。

 

 

しかし、私は、

こうした経験を経て

強く感じたことがあります。

 

後悔したり、恨みを持つよりも、

今できることとは何なのかをよく考えて、

実践していくことのほうが大切であると。

 

そして、

心をおだやかにするには

どうしていくべきかを

考えることの方が大切であると。

 

 

反省するということは、

とても結構なことだと思います。

 

しかし、

後悔は後退するだけでしかないと思うのです。

 

後悔したとしても、

前進することは何ひとつありません。

 

善き心も生みませんし、

おだやかにもなりません。

 

後悔は、

ただ心を乱し、

汚すだけなのではないでしょうか。

心を乱したり、

汚したりするのではなく、

心がおだやかになる方向で、

そして、善き心を育てていく方向で

ものごとを考えていかなければなりません。

 

後悔するよりも、

今できることとは何なのかを考える。

 

そして、

それを実践していくことこそが

仏教の生き方であると私は考えています。

 

 

日常の生活の中では、

どうしたらよいのかわからないことに

出会うことは珍しくありません。

 

「どうしよう!」

 

と思うことに出会うことが

たくさんあります。

 

 

私は、そのような時、

このチェンマイ市内の下町にある

このお寺での出来事を

思い出すようにしています。

 

 

どうしたら、

私の心はおだやかになるのか?

 

今、私に何ができるのか?

 

今、私は何をするべきなのか?

 

 

後悔するよりも、

今できることを実践する。

 

 

今の実践が明日につながるのですから。

 

 

必死で学んだタイ語でしたが、

限界もあったようです。

 

結局は、それ程、

堪能になることができませんでした。

 

私の能力の無さを

嘆いたこともありました。

 

やはり、

タイ語をマスターすることはできず、

残念だったという思いはありますが、

当時の私として、

できることや思いつくことは全てやり切り、

最善を尽くした結果だったわけですから、

後悔は一切ありません。

 

 

後悔するよりも、

今できることを実践する。

 

 

・・・もしかすると、

この程度の学びであれば、

わざわざタイまで行かなくても、

日本でも学ぶことができた

ことがらだったのかもしれません。

しかし、

この日常生活を通じた学びこそが、

実は深い仏教の智慧であることに気がつき、

人生の源となるものだと気づかされました。

 

 

やはりに私にとっては、

タイまで行かなければ

気づくことができなかった

ことがらだったのだろうと思います。

 

 

(『最善を生きる ~今できることを実践する~』)

 

※アイキャッチ画像は、私が実際にタイ語を学んだチェンマイ市内のお寺です。

帰国前に家族同然にお世話になった方々と挨拶を交わした後、記念に撮影したものです。

 

 

タイで“瞑想”修行

日本で“迷走”修行

 

タイの森のお寺で3年間出家

“瞑想”から“迷走” そしてまた“瞑想”へ

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