新・タイ佛教修学記

日本人の価値観

2020年6月14日

 

タイ人にとって出家とは、言うまでもなく『功徳』を積む行為です。

 

それは、同時に親孝行な行為でもあります。

 

両親も家族も、ともに大変喜びます。

 

両親が喜ぶ行為であるからこそ、親孝行な行いであると言えます。

 

父母が悲しむような親孝行は、親孝行ではありません。

 

 

ゆえに、タイでは「出家」=「親孝行」なのです。

 

 

誰からも尊ばれ、誰からも称賛される行い。

 

両親にとって喜びとなるばかりではなく、とても大きな徳ともなる行い。

 

 

それがタイにおける出家です。

 

 

もっとも、一時的な出家ではなく、両親にとって大切な息子が生涯にわたって出家するということになれば、話は少し別ではありますが・・・一般的には、広大な功徳となり、最高の親孝行となる行為とされているのが出家です。

 

 

さて、日本ではどうでしょうか。

 

出家をして両親は喜ぶでしょうか。

 

広大な功徳となるのでしょうか。

 

 

残念ながら、そうであるとは言えないのではないでしょうか。

 

もしかすると、私の知り得ないところで、両親の広大な功徳となっているのかもしれません。

 

しかし、親孝行どころか、親不孝ともなりかねないのではないかと思います。

 

両親が喜ぶ行為であるからこそ、親孝行であると言えるのであれば、両親が喜ばない行為であれば、それは親孝行であるとは言えません。

 

それは、紛れもなく「親不孝」にほかなりません。

 

つまり、タイと日本とでは、価値観が真逆だということです。

 

 

私は、タイで出会った諸師・諸先輩方に、病気の父を日本に残して出家をしており、日本へ帰るべきかどうかについて、助言とアドバイスを求めました。

 

 

ある瞑想指導者の先生からは、

 

 

「あなたの思いは伝わっています。

慈悲の瞑想を行いなさい。

両親の徳となります。

きっと両親は喜ぶことでしょう。

それがあなたにできる親孝行です。」

 

 

という助言をいただきました。

 

確かにその通りです。

 

慈悲の瞑想とは、自己の心をおだやかにするだけでなく、私自身から周囲へと“慈悲”が広がってゆくものです。

 

出家とは自己の功徳となるばかりでなく、両親や家族、関係する全ての人たちの功徳となり、喜びとなります。

 

しかし、それは両親がタイで暮らすタイ人であったのならば、その思いや価値観を共有できたのかもしれませんが、私の場合は、そうではありません。

 

 

また、ある長老比丘の方からは、

 

 

「日本へ帰ったとしても、なんの問題もありません。

またタイへ来たらよろしいではないですか。

そして、またタイで出家をしたらよろしいではないですか。」

 

 

そんなに悩むなよと言わんばかりに、とても明るく答えていただきました。

 

大変真摯な助言をいただきました。

 

その言葉は、とても嬉しかったです。

 

ところが、どこかしっくりとこないのです。

 

本当に嬉しい言葉ではありましたが、心の中に立ち込める霧を晴らしてくれるものではありませんでした。

 

 

そのようななかで、ある日本人の先生からこのような助言をいただいたのです。

 

 

「あなたの思いはとても理解ができます。

しかし、身の回りのことはしっかりと整理をしてきたほうがいいです。

お父様のこともしかりです。

このまま出家生活を続けたとしても、あなた自身の問題ですから全く構いませんし、私には関係のない話です。

ですけれども、この先、おそらく一生背負うことになると思いますよ。」

 

 

この言葉には、心を揺さぶられました。

 

どこかすっと腑に落ちたような、とてもしっくりとくるような・・・非常に納得をさせられたのです。

 

 

このように助言してくれた方は、日本人の先生でした。

 

やはり、私と同じ日本人からの言葉に、価値観を同じくするものがあったのでしょうか。

 

 

悔しくて、寂しくて、とても残念なことなのですが、私は、タイ人にはなりきれませんでした。

 

私の両親は、タイの価値観の中で暮らしているタイ人なのではなくて、日本の価値観の中で暮らしている日本人です。

 

仮に、私がタイ人の感覚になりきることができたとしても、両親は日本の価値観で生きる日本人です。

 

 

根本的な価値観が違います。

 

 

私がタイ人で、両親もタイ人であったのならば、私の出家は誰からも称賛される親孝行です。

 

しかし、私の両親からすれば、私は単なる身勝手な人間にしか過ぎません。

 

 

価値観とは一体何なのでしょうか?

 

自己の考え、自己の思い、自己の価値。

 

 

本当に正しいのでしょうか?

 

どこまで行っても、所詮は井の中の蛙にしか過ぎないのかもしれません・・・

 

 

仏教とは何か?

 

仏教とは、普遍的な真理であるはずです。

 

それは「いつでも」「どこでも」「誰にでも」当てはまるもののはずです。

 

時期や時代、国や地域、人種や性別の違いよって変わるものでは決してありません。

 

 

仏教とは何か?

 

それは、自己の価値観を超えることです。

 

自分勝手な思い込みや偏ったものの見方、そして自己の執着から離れること、それが仏教です。

 

全ての仏教の修行や学問は、これらの偏ったものの見方や捕らわれたものの見方から離れるための心のトレーニングです。

 

自己の『物差し』を捨て去るための訓練です。

 

私のこうした悩みも、苦しみも、所詮は自己の価値観の中でもがいているに過ぎません。

 

とは言っても、果たしてこれは、単なる自己の価値観だけの話で終われることなのでしょうか。

 

ただの思い込みに過ぎないのでしょうか。

 

自分勝手な思い込みと偏ったものの見方にしか過ぎないものなのでしょうか。

 

 

私の心は揺れに揺れました。

 

 

真実の姿を観る・・・

 

 

瞑想によって、こうした心の動揺は、ただ「心が動揺している」とだけ観察していかなければならないのでしょう。

 

どこまでも冷静に、どこまでも冷徹に、そしてどこまでも客観的に、揺れいている「自己」というものを観察していかなければならないのでしょう・・・本来であれば。

 

 

(『日本人の価値観』)

※アイキャッチ画像は、
『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より。

 

 

タイで“瞑想”修行

日本で“迷走”修行

 

タイの森のお寺で3年間出家

 

“瞑想”修行と“迷走”修行を経て

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