ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想は、タイでは通称「サンマー・アラハン」と呼ばれていて、ワット・パクナムのプラ・モンコン・テープムニー師によって創始された瞑想法です。
この瞑想法を継承して、指導している代表的なお寺が、宗家であるワット・パクナムと、その弟子が建立したワット・プラ・タンマカーイです(※以下、タンマカーイと表記します)。
謂わば、子弟関係にあたるので、基本的には同じ瞑想法です。
と言うよりも、“本来であれば”同じであるはずです。
しかし、私個人の所感としては、タンマカーイの瞑想のほうが、より進歩的かつ発展的な方法をとります。
このワット・パクナムとタンマカーイの瞑想は、タイで実践されている瞑想法の中でも、非常に特長的な瞑想です。
呼吸系の瞑想であるアーナパーナサティや通称「プットー」、マハーシ式の瞑想である通称「ユプノー」など、タイの主な瞑想法は『大念処経』に基づくもので、忠実にそれに従って構築されています。
呼吸や動作を通じてサティ(知る・気づき・・・「今の心」「今を気づく心」)していくことを常に心がけ、とても重視するものですが、「サンマー・アラハン」の瞑想ではサティをそれほど重視しません。
そのような理由もあって、この「サンマー・アラハン」の瞑想は、タイの仏教界の一部から厳しい批判の声が挙がっていて、賛否両論ある瞑想法ともなっています。
さらにタンマカーイは、その寺院運営の面においても、大きな非難を受けていて、タイの伝統的仏教教団の中に属しつつも、一線を隔するもので、注目に値すると思っています。
現代タイ仏教を語るうえでは、もはや外すことのできない存在となっています。
具体的な瞑想法についての紹介へと移る前に、タンマカーイが批判される主な点について触れてみたいと思います。
その賛否については、あくまでも読者の判断に委ねたいと思いますが、私の目から見た所感を書くことにします。
批判①
タンマカーイの瞑想は、単にサマタの瞑想(止:精神を集中させる瞑想)であって、ヴィパッサナーの瞑想(観、ものごとをありのままに観る瞑想)ではないという点。
批判②
仏教は「無我」を説くことが基本的な教説ですが、タンマカーイは「我」を説くものであって、仏教の教義を逸脱しているのではないかという点。
まずは、この2点の教学的批判が挙げられます。
しかし、これらはごく一部の学僧や学者レベルの間で疑問が提唱されているに過ぎません。
一般のレベルでは、細かな瞑想方法や厳密な教義的問題への関心はそれほど高くはありませんし、またこれらの問題について詳しく説明できる人も少ないのが現状です。
教学的問題よりも、むしろ関心が高いのは以下の点です。
批判③
タンマカーイの寺院運営に対する批判で、瞑想法が教学的に正統かどうかという問題よりも、どちらかと言えば、この問題の方が大きく問題視されています。
それは、寺院が世俗の問題に大きく介入している点やその手法が著しく人道に反している点が大いに批判されているほか、おそらくこの問題は、タイ国サンガに対して投げかけられている課題としての性格をも帯びていることもあり、より人々の関心を惹きやすいためだということもあるかと思われます。
とは言え、熱烈にタンマカーイを支持する人々が多数存在します。
一方で、激しく嫌う人々も多数存在します。
このように賛否両論あるがゆえに、非常にナイーブな話題です。
私の経験上、タイでこの話題を出す時には少々気を使った方がいいかと思います。
なお、賛否のほどは、各個人においてご判断ください。
特筆すべきは、不思議なことに同じ「サンマー・アラハン」の瞑想法をとるワット・パクナムに対しては、批判の声や疑問の声は全くないということです(瞑想法に対する批判は、以前より指摘されてはいるものの、それほど大きいとは感じませんでした)。
このことからも、ワット・パクナムが比較的保守的な立場をとるお寺である一方で、タンマカーイがタイでいかに突出した存在で、その活動が活発であるのかがわかるかと思います。
現在のワット・パクナムは、瞑想の道場という性格も伝えてはいますが、どちらかと言えば、学問寺としての性格が強くて、プラ・モンコン・テープムニー師のお寺として、師を慕い、師を信仰する人々で常に賑わっている、バンコクの中でも有名、かつ人気の、そして庶民的な側面を持ち合わせた大寺院の1つとなっています。
ちなみに、このワット・パクナムは、日本の仏教界とも交流があり、留学僧の交流もあるお寺だということはワット・パクナムの記事の中で触れた通りです。
さて、前置きがとても長くなってしまいましたが、次に簡単にワット・パクナムとタンマカーイの瞑想法を比較してみたいと思います。
◎ワット・パクナムの瞑想法
まず、姿勢を整えて、無理のないように座ります。
呼吸を整えて、「サンマー・アラハン」と唱えます。
そして、「球」を鼻孔のあたりに思い浮かべて、鼻孔→目頭の中心→のどのあたり→へその上2指のところへと「球」を引き入れて、移動させて、「球」をへその上2指のところで静止させます。
へその上2指の位置に「球」が安定するように何度も「サンマー・アラハン」を唱えます。
この「球」に“精神”を集中させることができるようになると、心を整えることができ、情緒が安定してくるといいます。
さらに、この「球」から光が発するのが見えるようになり、この光が消えないよう持続させるよう集中するようにします。
この段階で瞑想の導入となります。
タイでの通称「サンマー・アラハン」という呼び名は、このように瞑想の時に「サンマー・アラハン」と唱えることからそう呼ばれています。
◎タンマカーイの瞑想法
上記のワット・パクナムの瞑想と基本的には同様です(タイでは同様の瞑想法と捉えられている)が、さらに進んで「光の球」を思い浮かべる方法などをより具体的に教えています。
私は、光の球の思い浮かべ方について、とても斬新なところがあると感じました。
思い浮かべる場所は、目を閉じた時の中心、あるいはお腹のへその上2指のところのどちらでもよい。
いろいろな色が浮かんだり、球がぼんやりとしていたり、はっきりとしなかったり、大きくなったり小さくなったり、また動き回ったりしますが、無理にはっきりとした光の球を思い浮かべようとはせずに、力を抜いて楽にして、それらの状態を眺めるようにします。
そうすればやがて落ちついてきて、はっきりと光の球が見えてくるようになるといいます。
もし、それが難しかったら・・・
お母さんの顔を思い浮かべる、お父さんの顔を思い浮かべる。
自分の家を思い浮かべる、自分の部屋を思い浮かべる。
自分の部屋にある机を思い浮かべる、イスを、本を・・・思い浮かべる。
机の上に置いてあるコップを思い浮かべる。
同じようにして、水晶球を思い浮かべる。
さらに、光の球を思い浮べるようにする。
このようにして、具体的にあるものを思い浮かべることからはじめて、コップや水晶球のように、より光の球に近いものを思い浮かべて、やがては光の球を思い浮かべられるように訓練していきます。
そして、よりはっきりとした光の球を思い浮かべて、その状態を保つことができるように繰り返し、繰り返し訓練していきます。
ひらたく言えば、イメージトレーニングを積むわけですが、はっきりとした光の球を思い浮べるための前段階的な瞑想訓練ともいえます。
こうして繰り返し光の球を思い浮べて、それを保つことに努めて、瞑想を深め、境地を深めていくわけです。
また、「ブッダのイメージ」を常にへその上2指のところに保っておくという方法も教えています。
さらに、水晶球(ガラス玉)を瞑想の小道具として使うこともすすめています。
※へその上2指のところに、透明な玉を思い浮かべて、常に保っておくようにと指導されました。
このことを忘れるんじゃないぞと言って手渡されたガラス玉です。
ワット・パクナムでは、上記のような光の球の思い浮べ方のトレーニング方法やブッダのイメージを保っておくことに関しては全く触れていません。
プラ・モンコン・テープムニー師が教えたそのままを指導している点に特長があると言えるかと思います。
以上がサンマー・アラハンの瞑想の“導入部分”になります。
導入部分であるとは言っても、ここに紹介した段階に至るにも相当の集中が必要です。
このようにタイの多くの瞑想で重視される「サティ」(気づき)には触れることなく、「光の球」やブッダのイメージを保つことで、瞑想の境地を高めていくという方法論が非常に特長的であると言うことができます。
現在、日本の主な都市にはタンマカーイの支院があり、『タイ国タンマガーイ寺院』として在日のタイ人を中心として活動を展開しています。
瞑想指導も活発に行われています。
ご興味のある方は、直接、訪問されてみることをおススメいたします。
(『ワット・プラ・タンマカーイの瞑想』)
タイで“瞑想”修行
日本で“迷走”修行
タイの森のお寺で3年間出家
“瞑想”修行と“迷走”修行を経て
おだやかな人生へとたどり着くまでの
赤裸々ストーリーをお届けします
ご登録はこちら
(※登録無料・解除自由です。)